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さて、我々の大いなる善意の舗道は、しっかりと地獄の底にまで敷き詰められているだろうか?

 一八四四年四月十六日プロイセンの内務大臣によって逮捕状が出されて以来、中西部ヨーロッパを流浪しつつ闘争し、闘争しつつ思考してきたユダヤ系ドイツ人カール・マルクスは、一八四八年八月末から九月にかけて、革命の只中のウィーンの街角を短く過(よぎ)っている。

 この時三十歳のマルクスは、八月二十八日には民主主義協会の会合へと赴き、さらに八月三十日と九月二日の二度にわたって、ほんの二ケ月ほど前市外区ヨーゼフシュタットに創設されたばかりの「第一全国労働者協会」を訪れて講演している。

 そして、ちょうどこの頃、ウィーン革命とシャリヴァリは一つの大きなピークと転換点を迎えていたのである。



 三月十三日宰相メッテルニヒの追放に始まり、ウィーン会議以来四十年間続いたビーダーマイヤー時代の甘酸っぱいダンディズムを一夜にして吹き飛ばしたウィーンの革命は、五月段階までは、ユダヤ教徒を含むドイツ系の市民や学生を中心にして一院制議会と責任内閣制に基く立憲王制を目指す共和主義的なトーンを基調にしてきたと言われる。しかし、良知力の周到な原資料の採集とそれに対する洞察に拠れば、その音色には既に当初よりかなりの雑音が混じっていたのである。ブルジョワ革命の正調を乱すノイズとは、まずリーニエ(市壁)近く西南部の市外区に住む工場下民たちの群衆デモであり、次いでリーニエの外でドナウ運河の川向う、東北部プラーターのバラック街に雑居するスラヴ系下層民たちの蠢動であった(ちょうど一世紀後の1949年キャロル・リードの映画『第三の男』の中で、オーソン・ウェルズ扮するハリーが主人公と再会する大観覧車の聳える遊園地が、かつてハプスブルグ家のお狩り場だったこのプラーター遊園である)。ドナウ河とドナウ運河に挟まれ、中世にジェズイット派修道院によって拓かれたこの低地一帯には、この当時、ロンドンやパリに遅れて、しかしベルリンよりも早く勃興しつつあったウィーンの資本主義が吸いよせたボヘミア系、チェック系など東方からの移民たちの貧民街が広がっていた。彼らの多くは運河開削などに従事する土木労働者たちであり、その人口は日々膨張し続け、五月末で約五十万の市内人口に対してプラーターのそれは二万人を超えようとしていた。

 四月一日、ウィーン河畔劇場に掛けられた「万年学生」別名「永遠のイスラエル」という芝居で演じられた舞台上のシャリヴァリに触発されて始まったシャリヴァリ闘争もまた、わずかの間にその主体と方向を一変させる。むしろ、武器なき(市民層は既に武装していた)組織なき指導者なき下民たちの唯一つの「武器」としてのシャリヴァリの噪音こそが、何よりも鋭くウィーン革命の転調を告げていたと言えるかも知れない。当初は市民たちの政治的な権利要求のライン上で、宮廷派と目されていた「ウィーンの心臓」シュテファン教会の大司教宅や上層市民と皇帝側近との連絡場所であった「法律・政治読書協会」の建物、そして外務大臣フィクルモンの家などへ仕掛けられてきた市民的シャリヴァリでさえも、四月十七日頃出されたあるビラによれば、実のところ既にそれをやっている連中の大半は学生や市民層ではなく、ボヘミアから流れてきた「放恣な大衆」「プロレタリア」「ゲジンデル(流民)」「民衆の屑」なのだと指摘されているくらいだった。

 この不協和音は次第に音量と強度を増し、六月に入るとはっきりと方向を転換する。包囲下の市財政の悪化が最初にそして最も苛烈に圧迫したのは下層民たちの生活だった。シャリヴァリの矛先はまずパン屋、そして肉屋へと向う。これらはいずれも下民たちの糧道を支配する地域社会の権力者たちだったからである。その音色も、学生楽師たちの簡単なシンフォニーと啓蒙的な演説の組み合わせから、群集による雑多なノイズとヴォイスの饗宴へと変化する。ボヘミア方言の嬌声と民俗的な音調の破片がバロック建築の建ち並ぶウィーンの夜の空気を震わせたことだろう。六月二十八日などは、夕方から深夜にかけて上プラーターのユダヤ教徒密集区レオポルドシュタットのすべてのパン屋がシャリヴァリの対象となっている(シャリヴァリの孕んだ反ユダヤ主義ひいては反革命のベクトルについては、後にイタリアに舞台を移して語られることになるだろう)。こうした動きは、さらに家主や工場主たち、そして地域の司祭、男爵、地区裁判官、国民軍地区長などへと及んでますます激しさを増し、連日連夜のように行われるようになる。下民たちのシャリヴァリは、とうとう市民革命の枠を超えて、ウィーンという都市社会を支配する上層市民たちによる「所有」の共同体そのものを攻撃し始めたのだった。これを現在の日本に平行移動させてみれば、それがいかに刺戟的なアミューズメントだったか想像できるだろう。現代アジアの下民たちのノイズとヴォイスは、どのような「世界音楽」を東京の街に響かせるのだろうか。

 この事態にウィーンのブルジョワジーは驚倒する。六月三十日、市民革命の事実上の執行機関である治安委員会は遂にシャリヴァリの武力規制に踏み切り、次のような布告が出される。

 ――この数日来、猫ばやし(シャリヴァリ)がいよいよ烈しさを増し、市外区ではとうとう人命まで奪われるにいたった。すべての良識ある人士はこうした下賤な暴動に参加することなく、その防止に努めてほしい。まず両親と教師はその監督下にある子弟が猫ばやしに参加しないよう留意してほしいが、対策としては次の三点を守ってほしい。

 第一に、騒ぎが起きたらその地区の全騎馬部隊が出動し、近隣地区の国民軍も出動すること。さらに増強が必要な時は近隣地区の騎馬部隊も出動し、出動した部隊が攻撃を受けた場合には、地区全体にドラムを合図に非常召集がかけられる。第二に、それでも効果が上がらないときには、ドラムを叩いて三度解散を警告し、それになお従わず現場に残っている者には武器を使用すること。そして第三に、国民軍の公務執行に抵抗する者は法に従って処罰すること(筆者注――国民軍とは、皇帝軍に対抗して有産市民の有力者を長として組織された市民兵のこと。特に騎兵はウィーン社会のエリートだった)。

 これは1990年十月の釜ヶ崎の出来事ではないのだが、確かにこうした事態は、ある意味では叛乱と弾圧の弁証法の一段階を示すきわめて古典的な光景と映るかも知れない。しかし、その弾圧対象が「真夜中の音楽会」だったというケースはあまり聞かないことだろう。この文言には、ウィーンのブルジョワジーがそれを「地獄の音楽」と呼んだ心理が明瞭に浮き出ている。確かなことは、シャリヴァリとは一八四八年のウィーンにおいて音楽にして暴動であり、そして暴動にして音楽だったということである。しかしシャリヴァリは止まない。それどころか、この噪音は中欧各地に実に耳障りな共鳴を引き起こす。

 八月末の『学生新聞』は伝えている。

 ――いまやドイツのすべての都市でシャリヴァリが大はやりだ。モラヴィアの首都ブリューンも例外ではない。みんなビールで景気をつけて市長リチュルにシャリヴァリをかけた。市長は自分のために年金千八百グルデンを決めさせようとしたからである。

 遂には、こんなジョークも飛び出すようになる。

 ――シャリヴァリを防ぐための名案。一、全員朝家を出るとき、治安衛兵の手で素裸にし、笛やガラガラを持っていないかどうかを調べる。持っていた者は、夜笛を吹けないように舌を抜かれる。二、徒弟は三十歳になるまで外出を許されない。三、機関車もすべて笛を持っているから射殺する。四、飲み屋で「ワイン一プフィフ」(八分の一リットルのことだが、笛を吹くという意味もある)などと注文した者は、皮を剥いで吊し首にする。五、笛で襲撃した者は死刑にする。六、元スパイと同様、猫にも首輪をかける。七、すべて猫ばやしは死刑で答える……。



 マルクスが過ったウィーンとは、このようなウィーンだったのである。

 それは、たった今しがた息絶えたばかりのビーダーマイヤー文化の優美な廃墟でもなければ、ヨハン・シュトラウスのウィーンでもなかった。かつてハイドンやモーツァルトが活躍し、二十年前までベートーヴェンが住み、そしてほんの二年ほど前、フランツ・リストが十二回もの凱旋コンサートを行なったことなど信じられないような有様だった。

 もちろん、後のクリムトやシーレたち分離派のウィーンも、マーラーやシェーンベルクやツヴァイクやホフマンスタールやフロイトやヴィトゲンシュタインたちの鈍色に輝く「精神の世界都市」ウィーンも未だやって来てはいなかった。もっとも、目をよく凝らしてみれば、池内紀好みのアンニュイな世紀末のウィーンが、マリアヒルフ通りに面したカフェのトルコ珈琲の薫り漂う薄暗がりの中に、このころ密かに胚胎されようとしていたのかもしれないが――。

 ともあれ、マルクスが速足で通過していったウィーンが、いわゆるロマン派音楽の時代の真只中、ヨーロッパ音楽の都が一瞬シャリヴァリの都と化したその瞬間のウィーンであったことは間違いないだろう。

 それでは、『第三の男』の澄みきったツィターの調べを物憂げに聴いていた筈のなかった亡命ドイツ人カール・マルクス氏は、このバロック都市の路上に夜毎さんざめいたスラヴ下民たちの「音楽」に耳を澄ませたことがあったのだろうか?

 残念ながら、プロイセン内務省の執拗な監視記録もこの質問には答えてくれていないようだ。良知力の歴史に対する末期の視力、もしくは聴力もまたさすがにここまでは及んでいない。亡命者は当然ながら詳しい行動記録を残していないのである。いったい、ウィーンに何日間逗留したのかさえ定かでない。九月七日にも当地を去ったという説と、九月二十日すぎまで滞在していたという二説がある。

 だが、耳に入っていただろう。一八四八年のウィーン市街の人口は現在の杉並区のそれにも満たず、あまつさえ、劇場やカフェや居酒屋が数多くあったとはいえ、この街の青黒く澄んだ夜の帷にはまだ只一つの電灯の光もスピーカーの音も無かったのだから。夜の闇の中で蠢いていたのはウィーン名物の売春婦たちくらいのものだっただろう。そして、その売春婦たちこそ大挙してシャリヴァリに加わっていたのである。

 マルクス到着直前の八月二十三日、政府の賃下げ政策に怒ったプラーターの労働者たちが大規模なシャリヴァリとデモを行う。女や子供たちも混じった労働者たちの行列が、つるはしやスコップを担いで「狐の歌」という政治諷刺ソングを歌いながら「プラーターの星」と呼ばれる大きな円型ロータリーに差しかかった時、迎えうった治安部隊や市民軍との間に衝突が起きる。下民たちのシャリヴァリが地域の小権力者たちから市民政府そのものへと向った時、パン屋や肉屋や工場主たちを担い手とする市民軍が襲いかかったのである。つるはしと銃、笛や太鼓とサーベルの闘いだった。労働者側に、母親や子供たちも含めて十八名の死者と三百名を超える負傷者が出ている。

 マルクスが潜入したこの街に、こうした激突の余燼が逆巻き、その甲高い残響が響きわたっていたことは十分に想像できることだろう。



 確か廣松渉は、どこかでこんなことを述べていたように思う。

 カール・マルクスは、1848年の経験の余韻の中で、その響きを反芻しつつ総括していくことによって、自らの後年の思想を形成していったのだと。

 およそ反音楽的な重量感を有する氏の言明が「余韻」ないしは「響き」というような音響的なタームを使っていたのかどうか、今回幾つかの廣松作品を当たってみたがはっきりしなかった。しかし、今は記憶のデフォルメ作用の妙を愉しんでおこう。文字通り、1848年秋のウィーンで、カール・マルクスが一体どのような「音楽」を聴いていたのかが問題なのである。つまり、アルチュセールを要約しつつ今村仁司が指摘しているように「マルクスが、どこで、またいかにして彼の作品とその生産の理論的および歴史的諸条件との関係を、理論的に反省したのか」(『歴史と認識』より)という問題は、彼の音楽観とその思想の関係についても適用されていい筈である。そしてこのことは直ちに、一九六八年の経験の余韻の中でその響きを反芻しつつ思想形成していった我々が、あの時どのような音を聴き取り、そして今どのような余韻と現在の音の中にいるのか、という問いを惹起することだろう。

 では、世界音楽の歴史において1848年とは一体どのような年だったのか。

 ウィリアム・ウェーバーの『音楽と中産階級――演奏会の社会史』が提供しているうんざりするほど詳細なデータ等を使って考えると、それは、現代の「クラシック音楽」と「ポピュラー音楽」という二分法がヨーロッパ革命の敗北の結果として成立した年だと言える。西欧音楽の楽理体系や音システムは、既にこれ以前の古典派の時代にはほぼ完璧に完成されていた。ここでは、産業資本主義の構造に沿った「西欧近代音楽」の生産と消費の様式(スタイル)が決定されていったのである。バッハ、ベートーヴェンなど貴族をパトロンとする重厚なドイツ=オーストリア音楽が、急速に抬頭してきた産業ブルジョワジー好みのリストに代表される軽妙なヴィルトゥオーソの音楽やオッフェンバックたちの弾むようなオペレッタの要素を統合することによって、現在私たちがイメージしているような「クラシック音楽」が形成される。つまり、ブルジョワジーが貴族の趣味を吸収して、この年イデオロギーとしての「クラシック音楽」が誕生したのである。むしろそこから遡って、過去の例えば「十八世紀のパンク・アーティスト」(上野俊哉)モーツァルトなども読み改められ、威圧的な「西欧クラシック音楽」のオーソドキシーが捏造されていく。この過程を、渡辺裕は前述の『聴衆の誕生』の中で、「階級」という言葉を一言も使わずにあたかも自然淘汰の過程のように描いているが、渡辺自身が典拠とした不十分なW・ウェーバーの著作の書名でさえもが示すように、これは明確に一八四八年ヨーロッパ階級闘争の一つの帰結として考えられるべきなのである。例えば、かつて喜安朗が描いた、同時代のパリのシャルル・ジルに代表されるような民衆詩人たちが居酒屋のゴゲット(歌う会)で唱った批判的シャンソニエの系譜は徹底して弾圧され、西欧音楽の正史から切り落とされている。その上で、こうした排除された要素の残滓や路上の流しの音楽、さらに流入してきた周辺民族のフォークロアの調べなどが寄り合わされて、ミュージック・ホールやキャバレーで歌われる補完的な「ポピュラー音楽」が生まれてくるのである。こうした枠組みの中から、1950年代のロック・ミュージックもまた鬼子として産ぶ声を上げるだろう。

 だが、シャリヴァリは、こうした二分法のさらに下方に蠢いてたのである。

 それは、例えば十八世紀の同じドイツ−オーストリア地方で盛んになった民衆参加による野外集団歌劇「ジングシュピール」、池田浩士が再三にわたってナチズムの「民衆文化」として取り上げてきたこのオペラ形式と比べてみると、構成されたハーモニーに対する雑多で多方向なノイズ、統一されたプロイセン=ドイツ語に対する様々な周辺言語の混在、登りつめる単線の物語に対する粉々に砕かれた物語の粒子の放射という争異点を持っていたと想像できるだろう。1848年のウィーンに音声記録メディアやサンプリング・マシーンが存在していたとしたら、大友良英のようなミュージシャンは狂喜したに違いない。バフチンがカーニバル【カーニヴァル】との類縁性を指摘して以来、ナタリー・ゼーモン・デイヴィスのような行動的な歴史家を例外として、クロード=レヴィ・ストロースを始めとする人類学者や民俗学者たちは中世以来のシャリヴァリを構造論的な祭儀として、つまり近代以前の民衆社会におけるモラル・エコノミーの自働調節装置として捉えようとするが(蔵持不三也、近藤和彦、北沢方邦ほか)、少なくとも1848年ウィーンのそれは前近代の遺物ではなく、紛れもなく近代先端の産物だったのである。アジアとヨーロッパの接点ウィーンを一瞬埋めつくし震わせた民衆のノイズは、確かに「西欧でもなければ反西欧でもない。だがまた、西欧的でもあれば反西欧的でもある」(良知力)「交通」そのものとしての音楽だったと言えるのではないか。

 この音をマルクスは聴いたが、しかし聴いていなかった。すなわち物理的には聴こえていたが、思想としては聴こえていなかったのではないだろうか。



 ところで、我々の善意の舗道は確かに地獄へと通じている。

 マルクスが去って約一ケ月後の十月、シャリヴァリを担ったプラーターの下民たちや市外区のプロレタリアたちは武器を笛や太鼓から銃に持ち替えて包囲侵攻してきた皇帝軍と戦い、そして潰滅する。下層民たちは二千名以上の戦死者を出したと言われ、さらに直後の報復反革命によって殺された者は数知れない。下民たちの死体は統計の外に放置されたからである。

 こうして、後の1857年に始まり三十年間にわたった首都大改造によって下民たちの闘いの歴史の痕跡は徹底的に拭い去られ、シャリヴァリの余韻もまた完全に断ち切られる。今世紀初め、下民たちの子孫ボヘミア系市民によって人口二百万の三分の二が占められながら、帝国の首都ウィーンの空に響いていたのは、優雅なロマン派音楽と聳え立つバロキズム、過剰な装飾の交響する「建築の音楽」のみだったのである。シュテフォン・ツヴァイクの「昨日の世界」はここに成立する。

 世に名高い世紀末ウィーンの倦怠とは、どうやらこの辺りに淵源していたようである。

 歴史は、いとも簡単に忘却されうる。

 だからこそ、我々の世界音楽の闘争は、まずそうした密やかな余韻に耳を澄ますことから始められるだろう。


(資料と引用は、良知力『向う岸からの世界史』『マルクスと批判者群像』『青きドナウの乱痴気』『一八四八年の社会史』『女が銃をとるまで』『魂の現像学』、増谷英樹『ビラの中の革命』『歴史のなかのウィーン』、川名隆史・篠原敏昭・野村真理『路上の人々――近代ヨーロッパ民衆生活史』、蔵持不三也『シャリヴァリ』、近藤和彦『モラル・エコノミーとシャリヴァリ』(『世界史への問い6――民衆文化』所収)、『アナール論文選魔氈\―女とシャリヴァリ』、エリック・ホブスボーム『反抗の原初形態』、ナタリー・Z・デイヴィス『愚者の王国、異端の都市』、ミハイール・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』、カール・E・ショースキー『世紀末ウィーン』、シュテフォン・ツヴァイク『昨日の世界』、北原敦・木村靖二・福井憲彦・藤本和貴夫編『ヨーロッパ近代史再考』、そして池内紀『ウィーン――ある都市の物語』、同訳編『ウィーン世紀末文学選』他より)

――1990・11



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