世界音楽の闘争
平井玄



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まず鋭い口笛が鳴る。

それが合図で無数の笛の合奏が始まる。コンサートの開始である。何百もの音楽が一斉に奏で始める。指揮者もいなければ聴衆もいない。だれもかれもが演奏家なのだから。ドラムだのトランペットだの笛だのガラガラ玩具だのを持ち出して、不協和音を響かせる。笛を持っていない者は人差し指と中指を口に当てて、ピーピーピーと口笛を吹きならす。女たちは鍋やフランパンを持ち出して、ガチャガチャと叩きまくる。たらいの底をしゃもじで叩いてドラム代りにする。(1848年4月の『ウィーン新聞』より)

 革命にシャリヴァリはつきものである。ドイツ語ではカッツェンムジーク、猫の音楽とか猫ばやしという。要するに、気に入らぬ者のところへ押しかけ、笛やドラム、鍋やフライパンを叩いて「民衆的制裁」を加えることである。四月一日、テアター・アン・デア・ヴィーン(ウィーン河畔劇場)で上演されたある芝居で、このシャリヴァリが演じられ、またたく間にウィーンの街に流行する。最初は革命派が反革命派にたいしていやがらせを行う、いわば政治的シャリヴァリが主体であり、それをタイトルとする新聞さえ現れる。

 シャリヴァリはやがてウィーンの市民層から下層民、「プロレタリアート」や「ゲジンデル」(流民たち)へと広がる。彼らは高価な楽器など持ち合わせていないから、指笛をならし、桶やフライパンを打ちならし、はては子供までがガラガラおもちゃを持ち出す。めざす相手は小さなセンメル(パン)を高く売りつけるパン屋、はかりをごまかし腐ったような肉を売りつける肉屋、安い賃金で労働者を働かせ、勝手に解雇する工場主などである。彼らはみな地域社会の権力者である。こうしてシャリヴァリは、政治的シャリヴァリから社会的シャリヴァリへ転化し、それとともに共同体の内部規制から共同体そのものに対する外からの反乱へと転化する。



 1848年ウィーン革命の研究を生涯のテーマとした歴史思想家・良知力が、1985年10月22日結腸癌で亡くなってから既に五年の月日が経つ。上の文章は、総て遺著『青きドナウの乱痴気』からのものである。

 昨年(1989年)来、伝えられ続けた中・東欧地域からソ連圏一帯にかけての歴史的な変動の報せに接しながら、私は良知力が遺してくれた幾つかの著作をもう一度読み返し続けてきた。そのなかでとりわけ深く脳裏に刻み込まれていった言葉、それは、「ガスト・アルバイターとしての社会主義」(下線筆者。『向う岸からの世界史』より)という謎めいた言葉と、そしてここに出てくる「シャリヴァリ」という耳慣れぬ言葉だったのである。

シャリバリ
愚者の祭りにおけるシャリヴァリ、雑音と騒ぎの行列
(『フォーヴェル物語』手写本挿絵より、パリ国立図書館蔵)
蔵持不三也著「シャリヴァリ ─民衆文化の修辞学─」同文舘より


 「無反省に西欧のうえに乗っているだけで四八年革命の「革命的」意味がつかめるものか。さりとて、何にでも「反」の字をのっけて収まりかえっている神経も私自身のものであってはならぬ。西欧でもなければ反西欧でもない。だがまた、西欧的でもあれば反西欧的でもある。そのことをいつか私は歴史そのものに語らせてみたいと思うのです」――という言葉を遺し、下層に生きる者たちの眼から見た革命における民族問題の重層にとりわけ深い関心を抱き続けた氏が、もしもその生を永らえていたとしたら、この間のまさに「向う岸」からの水流の氾濫を目のあたりにして、一体どのような言葉を呟いたことだろうか。ウィーンならぬ、この東京という現実の多民族都市の中で生きる我々にとって、「他者のなかで、他者をとおして自己限定しうる能力こそが普遍性につながる」と語った氏の仕事の緩かな、だが長い余韻の中で考えられるべきことは、狭い意味での政治史と社会史に関わることに限られない。

 それにしても、「としての」という同格の形で、前者の「ガスト・アルバイター(移民労働者)」と後者の「社会主義」とを直接に結びつけるような表現を敢えて選びとった良知力の、その含意と志向とはどのようなものだったのか。


 さて、こうした歴史的な推移と何やら並行するかのようにして、欧米と日本(とはっきり限定しておきたい)の音楽マーケットに浮かび上がってきたのが、「ワールド・ミュージック」といういささか口あたりの良すぎる言葉だったのである。

 同時代の、そして歴史上のあらゆる地域のあらゆるスタイルの音楽を、まるで偏見なき善意の人類学者たち(?)がフォークロアを採集するようにして細心に聴き取り、そしてそれらの総てを同一の感覚平面上で感じ取ること。もちろん、あくまでもあくまでも軽妙に。この国で量産される奇妙なオリエンタル・アイドル・ポップ歌謡からエジプトの異端コプト派の讃美歌に至るまで。バッハのミサ曲の数多い異稿楽譜の仔細な再現演奏から現代ボリビアのアイマラ・インディオたちによる電子フォルクローレに至るまで。十九世紀フランスのニデルメイエルの古典宗教音楽学校で教えられていた声楽曲の能う限り精確な復原から、カンザス・シティの黒人街に在るレイス・レコード・ショップの隅にうずくまる21年前に死んだ無名の黒人カントリー歌手の傷だらけのデヴュー・シングルに至るまで。極東部ソ連の朝鮮族が歌うロシア語まじりのバイ・リンガル・ソングから、在ニューヨーク朝鮮人がロフトで演奏するハードコア・ミュージックに至るまで。アルメニア人ハチャトゥリアンが『剣の舞』を構成する原型となったクルド人たちの闘いの舞楽の現代ゲリラ版から、在パリ・アルメニア青年たちの決してシャルル・アズナブール風ではないパンク・シャンソンに至るまで。マダガスカル島のインドネシア系メリナ族の学生たちが唱うマラガシ語による反フランス反帝ロックから、オーストラリアの先住アボリジニーたちのバンドが演奏する反核反米反豪ソングに至るまで。西アフリカ・ザイールのルンダ族の支族ソオンデ族の唖者たちが呻き声だけによって歌う華麗な歓びの歌から、かつてアメリカ陸軍が開発しつつあったと言われる音響兵器のレプリカの数々による集団即興演奏に至るまで。地球大気ではない別種の物質が伝え鼓膜以外の感官が聴くであろう異星上の音楽たちから、樹林が感じ取ると言われる気流音や巨大都市の騒音への反応から再構成されるだろう樹木たちの人類への怨嗟の声にも似た長大な音列に至るまでの……。

 どうやら、ここには現実と空想の音楽がいつの間にか混じり合ってしまったようだ。ともあれ我々は、こうしたささやかな善意の意図に対しては、むしろより大いなる善意の意志をもって応えなければならないであろう。すなわち、巨大なマーケットの見えざる複数の手のその合意をはるかに超えたところで、来たるべき「世界音楽」そのものについて語られるべきであると。それも、良知力がその中で生き、そして自らもそうした響きの一つとなっていったような、下方の歴史に鳴り響く重層した余韻の中でこそ。



 かつて現代音楽やフリージャズ、そして即興音楽やフリー・ミュージックと呼ばれる分野において、音楽構造の脱西欧化やインター・エスニックな集団即興演奏を目指す自覚的な試みは幾度となく繰り返されてきた。それは今もなお続いている。その意味では、世界音楽の闘いは既に、遅くとも一九六〇年代には確実に開始されていたのである。

 ところが、現在見られるようなほとんど恣意的な「ワールド・ミュージック」という命名法は、決して自ら音を発する者たち自身によって選びとられたものではないようだ。従ってむしろそれは、まず優れて聴く側の問題、その聴取の在り方、大衆的な規模で現われてきた聴き方の変化に関わってくるだろう。つまり、こうした言葉の一定の流通は、渡辺裕がクラシック音楽の状況を扱って「近代的聴衆の崩壊」として整理していった変化(『聴衆の誕生』)や、アメリカの民族音楽学者ブルーノ・ネトルが最近の非西欧世界の音楽に関して「都市化」「多様化」「互換性」といった一連の概念で指し示そうとした変容の動き(『世界音楽の時代』)とも深く関係しているのである。その点で彼らの議論は「ワールド・ミュージック」を根拠づける有力な論理として機能していると言える。

 既に私たちの身体は、史的背景も地域性も音システムも全く異なるあらゆる種類の音楽を、ランダムな配列でしかもある種のメタ・レヴェルにおいて聴き取ることをごく普通の感覚与件にしてしまっている。これは渡辺裕の指摘を待つまでもなく事実であろう。CDとヘッドフォン・ステレオとパラボラ・アンテナの驚くべき急速で高密度の普及が、その最も判りやすい例証を提供することだろう。音楽の受容と生産のこうした条件は、時差と濃淡の差はあれ、もはや地球上の至る所で成立しつつある。日本電子産業の貪欲な進出と間違いなく軌を一にして。こうした変動の底に、ますます旧来の国家の枠を越えてボーダーレス化し、加速度を加えて流動し続ける経済や労働の、そして情報やテクノロジーの惑星規模での環境変化を見ることはもはや「現代用語の基礎知識」の部類に属していると言えるだろう。ここから、確かにこうした事態を、大きな意味で言えば五百年にわたって続いてきた西欧近代音楽の覇権の動揺や、それを支える生産と消費のシステムの変化への条件を形成する一つの契機と看なすことも不可能ではないのかも知れない。事実、渡辺やネトルの論理には、そのようなトーンが多分に含まれている。だが、ほぼ半世紀ほど前に『複製技術の時代の芸術作品』において、既にこうした把握の原型となるような思考法を示していたヴァルター・ベンヤミンが、常に政治的危機の只中で思考し続け、クレーの描いた歴史の天使が技術の進歩の強風に吹かれながらも、過去の廃墟を視つめていたということを決して忘れ去ることはできないだろう。

 渡辺裕が「近代的聴衆の崩壊」を語りポスト・モダーニッシュな「軽やかな聴衆の誕生」なるものを謳歌するその前に、あるいはブルーノ・ネトルが全世界的な規模での「多様化」を逆説的に可能にした西欧近代の音楽システム(平均律、機能和声、記譜法)の制覇が持った意味を再確認するそのずっと以前に、まず当の西欧音楽成立の発端において、現実にヨーロッパの下方に蠢いていた無数の雑なる音たちの大規模な「扼殺」があったと言うべきなのである。

 そしてその中の少なくとも一つは、良知力の下方の眼が捉えた「シャリヴァリ」と呼ばれる集団発音行為だったのである。



 日本で出されているほとんどの音楽事典の類いに「シャリヴァリ」という項目は見当たらない。ただ一つ、フランスのラルース世界音楽事典の日本語版に短くこうある。

 「いろいろな道具や喚声を使って、わざと調子はずれの物音を出して聞かせること。シャリヴァリは、大騒ぎをして新婚夫婦にいやがらせをするため行なわれた」

 これでは、単なる結婚パーティの座興だったとしか思えないことだろう。

 ところで、歴史学誌『アナール』から翻訳された論文選に、シャリヴァリに関する三つの論考が収録されている。「ラフ・ミュージック――イギリスのシャリヴァリ」エドワード・P・トムスン、「中世末期のシャリヴァリ――喧騒行為とその意味」クロード・ゴヴァール/アルタン・ゴカルプ、「ブルジョワの言説と民衆の慣習――シャリヴァリをめぐって」ロランド・ボナン=ムルディク/ドナルド・ムルディク、がそれである。

 それらに拠れば、まず中世以来のシャリヴァリとは、「共同体のある種の規範に違反した人々に対し、儀式化した形態で行なわれる騒音による敵対行為を指す」と言われる。フランス語のこの言葉と同じような慣習を指し示す類語として、イタリア語のスカンパナーテ、ドイツ語のカッツェンムジーク、ティーアヤーゲン、英語のラフ・ミュージック等が流布していることから、西ヨーロッパ全域で広く行なわれていた民俗行動であり、さらにゴヴァールらによればルーマニアのタタール系少数民族クリム人とノガイ人にも似たような慣習があり、またトムスンによれば、それは北アメリカへの植民者たちにも継承されていったとされる。文献によって確認できるだけでも少なくとも中世の1350年代から近代の1870年代くらいにかけて数千件が継続的に発生し、社会構造が激しく揺動する転形期であればあるほど頻繁に行なわれていったと言われている。

 具体的にはどのようなものだったのか。

 冒頭に掲げたものの他に、1618年イングランド・ウィルトシャで起った事件の記録を掲げよう。

 「正午ごろ、もうひとり別の太鼓奏者が到着した。……そして彼とともに、二、三百の男たちが、ある者たちは兵士のように銃やその他の武器で武装し……一人の男が赤毛の馬にまたがり、頭には白いナイトキャップをかぶり両耳には光輝く角をつけ、そして鹿の尻尾でできたニセのひげをつけ、……攻撃対象の家に近づくと、武装した男たちは銃を撃ち鳴らし、フルートや角笛を、そしてまたカウベルやらを人々は鳴らした。」

 「多くの形態はドラマの形をとる。一種の「大道芝居」なのだった。軍隊や裁判や教会の式典的な行列の似姿でもあり、ある種の冗長さを付与することによってそれらを嘲笑する反=行列でもあった」(トムスン)。参加者たち。「彼らは基本的には若者であった。〈仲間職人〉〈従弟〉〈でっち若者〉……〈腕の耕作農民〉換言すれば、窮乏の境にあり、肉体労働のみによって生計を立てる日雇農民であった」(ゴヴァール/ゴカルプ)。

 それは必ずと言っていいほど夜中に行なわれ、そして「音楽」が決定的な役割を担っていた。「それはリンチの一歩手前でとどまり……音楽が共同体の意見を、あるいは少なくとも共同体のうちの十分に勢力もあり攻撃的な部分の意見を実際に表わす」。しかも注目すべきことには、その行列には職業的な音楽家たちも入り混じっていたのである。「男たちは、音楽家たちにビールを買うための共同の費用を出しあった」(トムスン)。1832年、仏パ=ド=カレ県のシャリヴァリ裁判の文書中には「道義心のない芸術家や非合法のシャリヴァリ屋は……」という記述も見える。

 しかし、シャリヴァリが、中世社会の動揺の中で共同体を生存させてゆくために、男女両性の均衡や富の均衡そしてモラルの均衡を崩そうとする者への攻撃として発生していった以上、それは両義的(トムスンによれば中性的)な意味を持っていたと言える。実際にそれは「窮極的には共同体と資本主義の闘い」(ムルディク)であると同時に、ことに婚姻に関してきわめて「反動的」な様相を呈していた。つまり、もしこうしたアナロジーが許されるとするなら、シャリヴァリは「一揆」にして「村八分」なのだった。だから近代に入ると、デモやストライキの手段になることもあれば、「教会と国王」の名におけるそれも少ないながら発生してくることになる。

 だが、シャリヴァリもまた革命を経験するだろう。すなわち1848年、ウィーン革命の主導性が市民階級から下層民へ移るとともに、シャリヴァリの音色もシンフォニーからノイズへと移行する。ウィーンのブルジョワジーはこれを「地獄の音楽」と呼び、良知力は「真夜中の音楽会」と名づけた。遂にそれはハプスブルグ家と市民共同体そのものへの叛乱へと転化していったのである。そしてただちにベルリンへと波及していく。

 良知力の歴史への視力は、この事態を正確に見抜いていたのである。



 渡辺裕の言う「聴衆」には、明らかにこうした行動に参加した下層民たちはあらかじめ排除されている。それはたかだか、ベルリンやパリやロンドンのブルジョワ市民層を指しているにすぎない。また、ブルーノ・ネトルの語る「世界音楽」にも、もとよりシャリヴァリのような猥雑な「騒音」が含まれよう筈もないだろう。

 シャリヴァリは、文字通り共同体と共に「扼殺」されていったのである。おそらく、その音としての記録は地球上のどこにも残されていないだろう。だが、我々の大いなる善意は、シャリヴァリの長い余韻の響きを、六〇年代の黒人たちのフリージャズやそれ以降のノイズ・ミュージックのある種のもの、そして竹田賢一の大正琴が奏でる高周波音や、→ハイナー・ゲッベルスとアルフレッド・ハルトたちの「いわゆる左翼過激派ブラスバンド」【ハルトはブラスバンドのメンバーではない】の不器用な不協和音の中に聴き取ろうとするのである。

 1990年10月の現在、「世界音楽」について何ごとか語ろうとするのなら、音の歴史の地層を、少なくともこの辺りまでは深く堀り進まなければならない筈である。

――1990・9

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