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 どのような人間にとっても、畢竟「死」とは孤独な所業であろう。 だが、とりわけ孤独な死というものがありうる。

 1947年、すなわち第二次大戦がようやく終結してまだ二年目の二月六日。スイスとの国境に程近いイタリア北部、レポンティネ・アルプス山脈の裾野にある小さな田舎町チェッロ・ディ・ラヴェーノに建つ一軒の山荘で、一人の控え目で無欲な男が赤貧のうちに死を迎えようとしていた。

 61歳の音楽家にして画家。だが、どうやらその死は、彼のかつての音楽的主張に反して静けさに満ちたものだったようだ。彼とその妻の住むこの粗末な山荘には、若き日自らが情熱を込めて考案し演奏した幾種類もの楽器類の一台としてなく、残っていたのはただ一枚の古レコードと錆ついた蓄音機だけであった。そして、かつての喧しい仲間たちの誰一人として、彼の死の床に寄り添うことはなかったようである。このようにして、とある冬の日の朝、アルプスの山稜の彼方から忘れ去られた死が霧のように降りてくる。

 音楽家にして画家の名はルイージ・ルッソロ。1913年28歳の時に著されたその音楽的マニュフェストは「ノイズ芸術宣言」と呼ばれている。そして、かつて彼の属していた芸術的党派、それは「未来派」と名附けられていた。



 一方で、しかし、きわめて豪奢な死というものもまたありうる。もしもそれを「豪奢」と呼べるものならば。

 1945年四月の、おそらく二十九日か翌三十日。既に処刑されていたベニート・ムッソリーニとその愛人クラレッタ・ペタッチの屍体は、共産党系の解放義勇軍の手でミラノ市内に運び込まれた。そして直ちに、かつてドゥーチェ(統帥)の名において抵抗運動の活動家たちを数多く処刑していった当の場所に移される。ミラノ中央駅近くのロレート広場であった。こうして、そこに集まった猛り狂う大群衆は、かつてのドゥーチェとその年若い愛人の二つの屍を、広場に面した大きなガレージの正面に足を上にして逆さに吊り上げたのである。ムッソリーニは、ファシズム発祥の地ミラノの、かつて自ら肉声で(ドゥーチェは拡声装置を嫌った)熱狂する数十万の群衆に向けて吼え立てたその同じ場所で、今度は無言のまま、そして揺れながらありとあらゆる罵言を頭上から浴びることとなったのである。いったいその後何日間このような状態で駅頭の群衆の眼に晒され続けていたのか。あるいは、結局のところ二つの骸がどのような運命を辿ったのかについては詳らかではない。

 しかし後年特に、アントニオ・グラムシが「カエサル主義」として批判したような古代ローマの「栄光」を身に纏り着かせようとしていたムッソリーニにとって、自らの死にまつわるこうした血腥い古代儀礼のような舞台装置は実に相応しいものだったと言えるかもしれない。実際このような死に様は、1943年に失脚し幽閉されていた身をドイツ軍に救出され、「ファシズムの後輩」ヒトラーの操り人形に成り下っていたドゥーチェにとっては身に余る光栄、過ぎたる「豪奢な死」だっただろう。

 だがもちろん、ファシストの国家を解体し尽そうとする側にとっては、「ローマの古代劇場」を模倣する必要などは全くなかったのである。何故に、ナチ将校の制服に身を隠してアルプスを越えスイスへ逃亡しようとしていたムッソリーニを捕えた翌日、山中の簡単な即決裁判によって直ちに処刑してしまったのか。

 信頼すべきファシズム史家、レンツォ・デ・フェリーチェが明快に指摘しているように、「ファシズムが我々に与えた損害の中でも最大のものの一つは、断固としてファシズムに反対している最も若い世代の人々にまで、ファシスト的な精神構造を遺したこと」であるとするなら、ムッソリーニを追いつめていくプロセスがそのまま、「ファシスト的なるもの」を構成した有機的な因子を一つ一つ確実に抽出し、さらにそれらを丹念に一つずつ枯死させていく社会的な道程となるような方法を採るべきだったのではないか。

 我々は、必ずしも半世紀前のイタリア半島の情勢と経験を語ろうとしているのではない。デ・フェリーチェのこの発言は1975年に為されたものであり、そこで名指された「若い世代」とは紛れもなくイタリアの69年「熱い秋」以降の世代、……つまりはアントニオ・ネグリ等も含む広い意味での「我々」に他ならなかった。さらには、ベニート・ムッソリーニ自身が、17歳でイタリア社会党に入党し、19歳の時兵役忌避のためスイスに赴いて以来、ベルン、テッサン、ローザンヌ、ジュネーヴで石工や店員たちのイタリア移民労働組合の工作員として活動し、帰国してロマーニャの農民運動に関わり、またフランスのマルセイユで国外退去に遭い、オーストリア官憲に国外追放されるといった、きわめて戦闘的でしかもそれなりにインターナショナルな視野を持った社会主義者であったという事実を改めて想い起しておくべきだろう。

 ともあれ、かの音楽家にして画家の61歳の「孤独な死」と、かの闘争家にして統帥の同じく61歳の「豪奢な死」とを隔てる月日は二年にも満たない。二つの対照的な姿を持った死の有り様は共に、ロンバルディアの北方、アルプスの山並と湖沼をめぐる一帯の戦争と革命の時代の出来事だったのである。



 フランスとの国境ピエモンテ州トリノの南西に聳える標高3,841メートルのモンテ・ヴィーゾ山に水源を発して、モンブランを始めとする「ヨーロッパの屋根」から幾多の流れを集め北イタリアを西から東へ650キロにわたって貫き、豊かな水流をアドリア海とベネツィア湾の境に注ぎ込むポー川。このローマ時代から水利と水運を発達させてきた大河が、その沿岸に培ってきた広大な沃野がロンバルディア平原、もしくはポー川平原と呼ばれていることは周知の通りである。つまりはイタリアン・パスタの故郷である。

 この平野の西の要地に発展してきた巨大都市ミラノ。その市街から北北西に五十キロ余り行った所に、ヴァレーゼと呼ばれる人口十万人内外の地方都市がある。アルプスの山腹に散在する高級保養地として名高い幾つもの湖の中で、マジョーレ湖、ルガノ湖、コモ湖という三つの湖からちょうど等距離辺りに位置している。ルイージ・ルッソロが一九三七年以来住み着いたチェッロ・ディ・ラヴェーノは、どうやらこの町のはずれにあったようだ。というのも、この地名は、かなり詳細なロンバルディア州の地図中にも見い出すことができなかったからである。1885年、ヴェネツィアの北東、ヴェネト州ポルトグルアーローに生を享けた音楽家にして画家の終焉の地とは、このような貧寒とした所だったようである。

 さて、ここからやや東へ行った所にあるコモ湖をアルプスに向けて遡り、三つ又状に分かれた西側の湖水の尽きる辺りの西岸に、今度はドンゴという地名が現れる。この付近の洞窟状になった一本の道の路上で、ベニート・ムッソリーニとクラレッタ・ペタッチは銃殺されている。続いて同行したサロ共和国の五名の閣僚を含む残り15人のファシスト党員もまた同様の運命を辿った。このサロ共和国というのは、一度は失脚したムッソリーニが、ヒトラーの援助でこの付近のガルダ湖畔サロに樹立した実質上のドイツ傀儡政権のこと。政府の庁舎は湖畔に立つホテルだったといわれる。

 ところで、こうした地域を含むポー川沿いの大平原は、実は十九世紀末以来、ブラッチャンテと呼ばれる農業賃労働者によって組織された社会党系の労働組合レガの強力な地盤だったのである。そして、その指導部を地方ボス的な改良主義者たちが占めていたとはいえ、1920年までにこの地域には、おそらくは万を数えたであろう党支部、労働組合、消費協同組合、労働会議所、人民大学、読書サークル等からなる労働者たちの「対抗文化圏」とも言うべき、ゆるやかに結合された広範囲のネットワークが形成されていたのだった。さらにこれらの多くは、パブリックなスペースとしての「人民の家」、レクリエイション会館、イベント・ホール、人民図書館等々の施設を持っていた。こうした場所を中心にして行なわれた相互扶助活動や政治プロパガンダ、そして演劇やコンサート、さらには病人や障害者に対する援助や移民への相談活動、あるいは体操チームや自転車のクルーなど無数のアソシエイション活動が、ポー川平原全域を巨大な漁網のように編み上げていたのである。むろんそこで泳いでいたのは川魚ではなく、幾百万の労働者たちだった。

 この漁網の空間を、アントニオ・グラムシの分析方法を引き継いで『柔らかいファシズム』を著したアメリカにおけるイタリア系移民の末裔ヴィクトリア・デ・グラツィアは、「国家の中の社会主義国家」と呼び、日本における六〇年代の闘いの中で自らの歴史観を再構成していったであろう『ヨーロッパ近代史再考』の執筆者たちもまた、「最後に残った革命の問題」として特に熱心な考察を加えている。八〇年代イタリアにおけるアウトノミア運動の根茎もまたこの辺りにあったであろう。すなわちリゾームのリゾーム。

 そしてまさにここに、漁網を喰い破る雷魚としてのファシスト戦闘団・黒シャツ隊が登場してくるのである。



 「イタリア・ファシズムを語ることは同時に、イタリア未来主義を語ることなしにはありえない」と、ポール・ヴィリリオは語っている(『GS』誌4より)。ここでヴィリリオはデ・フェリーチェと同様に、北方ゲルマン的ドイツ・ナチズムの「血と土への回帰」と、地中海的イタリア・ファシズムの「空と未来への進歩」という二つの傾向を厳密に区別しようとしている。

 確かに、1910年代末までの未来派がファシズム運−動に知識人として「同伴」したのでは全くなく、「イタリアの三島由紀夫」ガブリエレ・ダヌンツィオ(もちろん実際には時系列が逆で、三島がダヌンツィオを模倣したのだが)の思想と行動と並んで、むしろファシズムに先駆けてその発想とスタイルを準備していったのだとする認識は、ベンヤミン以来つとに定説化されつつあると言ってもいいだろう。すなわち「政治に先行する美学」の視角。ここからベンヤミンの意図を超えて、かえって後に確立されたファシズム―体制こそ未来派にとって反動だったとして、未来主義のさらなる加速化にファシズムに突き抜けていく可能性を見ようとする者たちも現われてくるだろう。

 ところが、現在むしろ必要とされているのは、後の権力奪取後のファシズム―体制の日常においても、未来主義の惰性態は「美学の政治」の操作因子としての機能を十分に果たしていた――と見るような視角ではないだろうか。現実にそれは、ドゥーチェの未来主義的身振りとそれに応える大量の「未来派サラリーマンたち」として広汎な作用を及ぼしていたのである。ハイ・アートとしての未来派からロウ・ポリティクス(身体政治)としての未来派へ。そうした美学と政治が相互に干渉し、決定し合う過程を生きたまま掴み出すこと。1980年代以降のこの国で惰性化した未来主義が日常生活のイデオロギーとなったことが、こうしたアルチュセール的認識力を要求していると言えるだろう。アートや思想のあらゆるスタイルが、その惰性態において陳列されている時代。あらゆる空騒ぎの後で、ポストモダンは「惰性の時代」と訳されるべきであろう。この点において、まさに八〇年代に提出された田乃倉稔や細川周平の仕事は良質で誠実な参考資料たりえてはいるが、いささか楽天的で物足りないものなのである。

 そしてここに、詩人フィリッポ・トマソ・マリネッティではなく最初のノイズ・ミュージシャンとしてのルイージ・ルッソロが浮上してくる。

 だから我々は、こうも言っておこう。

 ノイズを語ることは同時に、ファシズムを語ることなしには決してありえない――
と。



 1964年に、稲垣足穂はにべもなく書いている。

 「その動機が何にあったにせよ、芸術作品としての未来派は絵画にとどめを刺す。……未来派の詩、音楽、劇と称されるものはいずれもちゃらっぽこな月足らずの思い付きであって、取上げるねうちもない」(稲垣足穂『未来派へのアプローチ』より)。

 実はここで足穂は、ルッソロを評価に値する未来派画家五人の中の一人に数え上げているのであるが、おそらくこの頃まだ彼の元には「音の未来派」としてのルッソロの実像は伝えられていなかったのであろう。三〇年代以来の長い忘却期間の後、偶然二人の音楽学者たちによってラヴェーノの山荘で夫人の手元に死蔵されていたルッソロの作品を録音したレコードが再発見されたのは、1957年のことだった。日本ではようやく1968年に秋山邦晴がやや詳しい紹介エッセイを書いている(『現代音楽をどう聴くか』所収)。フランスでのミュージック・コンクレートの流れの中で、ピエール・シェフェールやピエール・アンリらがルッソロを意識し始めたのも五〇年代であり、さらに下って、イタリアで最初のまとまった未来派音楽研究が出されたのは、足穂の死の前年1976年だったのである。

 だからやはり我々は、足穂の偉大なる脳天気ぶりに敬意を表しつつも、次のように言わなければならないであろう。聴覚をめぐるアートにおいて、今世紀の初頭1913年にルイージ・ルッソロによって、ある決定的な「突破」ないしは「切断」が行なわれたのだ――と。

 1913年三月十一日ミラノにおいて29歳のルッソロは、先行して未来主義的な実験音楽を発表していたバリッラ・プラテッラへ送る書簡の形式をとって、『ノイズ芸術宣言』を提出する。マニフェストはまずこう語り始められるだろう。

 「ローマは、満員盛況のコンスタンツィ劇場で、友人のマリネッティ、ボッチョーニ、バッラたちと、君の驚嘆すべき未来主義音楽がオーケストラによって演奏されるのを聴いていたとき、ある新しい芸術がわたしの脳裡に浮かんだ。それは君の素晴らしい改革の論理的結果、即ち、ノイズの芸術である。」

 この頃、やがて第一次大戦の始まりを告げるだろうサラエボの一発の銃声は未だ聞こえず、30歳のムッソリーニはまだ社会党機関紙『アヴァンティ』の編集長として頑強な反戦論の論陣を張り続けていた。

 ルッソロは、むしろ専門家ゆえに従来の「音楽」観から抜け出られないプラテッラの中途半端な試みを実質上批判しつつ、以下のように揚言する。

 「我々の生が表現される時は必ずノイズがともなっている。従って、ノイズとは我々の耳が常に感じているものであり、それは即座に生そのものを喚起する力を持っている。一方楽音(サウンド)は、生とは異質のものであり、常に音楽的であり、それ自体で存在するものであり、……我々の耳との関係からいうと、目とあまりにも見慣れた顔との関係と同じものになってしまった。逆にノイズは、生の不規則な混乱の中から不規則で混乱したままの状態で立ち現われるが、決して我々に対してその全体を見せることはない無限の驚きを留保している。それ故、あらゆるノイズを選択し組み合わせ調整することによって、想像だにしなかったような愉しみを人間に与えることができるだろう。……」

 私にとってルッソロのこうした言葉は、直ちに次のような言葉と、小さなしかし凛とした共鳴音を響かせてくれる。

 「文学はインスピレーションによるものではなく、言葉から作られたものであると定義する、かのマラルメの文章以上に、すぐれて唯物論的な綱領をわたしは知りません」

 これを、こう読み換えてみるとよいだろう。

 「音楽はインスピレーションによるものではなく、音(ノイズ)から作られたものであると定義する、かのルッソロの文章以上に、すぐれて唯物論的な綱領をわたしは知りません」

 あるいはこの場合は、「マラルメ」に替えて「シェーンベルク」とした方が適切なのかも知れない。何故なら、手紙の筆者はテオドール・ヴィーゼングルント・アドルノだったからである。そして宛先は、言うまでもなくヴァルター・ベンヤミン。マリネッティの未来主義理論を主敵としつつ、芸術の歴史的な機能転換の中で「アートの政治」を論じた『複製技術の時代における芸術作品』を読んだロンドン滞在中のアドルノが、パリに亡命している年長の友人への同志的批判をしたためた一九三六年三月十八日の手紙の一節であった(アドルノ『ヴァルター・ベンヤミン』より)。一九一二年に『月に憑かれたピエロ』を作曲し、ヨーロッパ音楽の内側から十二音という数学的な音の物質性へ到達しようとしていたアルノルト・シェーンベルクと、ほぼ同じ頃ヨーロッパ音楽の外側、というよりその足元に雑なる音の物質性を見い出そうとしていたルイージ・ルッソロ。だがヨーロッパの正統を正当に内破することによって逆にその構築力を救出しようとした「弁証法的作曲家」シェーンベルクに比べて、ルッソロの「切断」ははるかに徹底していたと言える。

 いずれにせよ、こうしてこの時、すなわち翌年のムッソリーニの右翼転向―ファシズム登場を寸前にした1913年、何よりもルイージ・ルッソロのノイズ音楽こそが未来主義のマテリアリスティックな可能性の臨界点を指し示し、そのファシズムへの転調の問題の中心部を貫いて鳴り響こうとしていたのである。




 さて我々の世界音楽の旅は、アルプス山脈東端の都市ウィーンから出立して、バルカンと小アジアの旧ビザンチン諸国を次第に南下し、パレスチナの十字路を通りアラビア半島を迅回してメソポタミアに達した後、踵を返して、今度は一気に地中海へと向かいアドリア海を通過して、再びアルプスの麓に広がる饒かな平原地帯へ帰投しようとしている。

 だが、警視庁公安部日本赤軍専従班の方々には申し訳ないが、今のところただの一度も海外へ行ったことの無い私が、どうして殊更に好んでこのような地球上の一地帯を彷徨しようとしているのだろうか。たとえそれが、奇妙な空想音楽旅行であったとしても。

 高橋悠治からも、短かくこんな私信が届いている。

 「音にしろ、ノイズにしろ、ヨーロッパから出発する以外にないのでしょうかねぇ」(下線筆者による)

 いやいや、私は、オクシデントの辺境にしてオリエントの辺境でもあるような、無数の音楽が立ち昇ってくる不思議な廻廊のような場所に赴こうとしているのですよ――などと言っても始まらないだろう。今や全ての場所が何らかの中心であり、そして何ものかの辺境でもあるのだから。地球規模のコンピュータ・ネットワーク上に、マシニックに変成してゆくインターエスニックな即成音楽のスペースを求めようとしている悠治氏にとっては、こんな事は自明であろうと思う。

 だから、今はこう言っておこう。

 ヨーロッパの瀟洒な街角の風景の表皮を一枚めくると、そこにはアジアの島嶼や沼地や高原が広がっている。そして、このヨーロッパの薄皮が今も、あるいは今こそますます全世界を覆い尽そうとしているのだから――と。

 そしてその表皮の裂け目に、1913年のルイージ・ルッソロとベニート・ムッソリーニが立っていたのだった。

――1991・7



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