3


目には目を、歯には歯を。そして、善意には善意を。



 ――これ、信徒のものよ、殺人の場合には返報法が規定であるぞ。つまり自由人には自由人、奴隷には奴隷、女には女。しかも、同胞が赦すと言った場合には、正々堂々とことを運ばねばならないし、また立派な態度で償いの義務を果たすのだ。――(井筒俊彦訳『コーラン』より第二章『牡牛』一七三節)

 いわゆる「目には目を、……」という簡素にして不気味な韻律で知られるイスラム法シャリーアの刑罰規定キサース、つまり同害復讐法の根拠とされているのは、右のようなハーシム家のムハンマドすなわちマホメットの啓示の言葉であったと言われている。

 おそらく、日本および西欧世界では、一般に犯罪行為者に対する血の報復をことさらに鼓吹する、余りにも峻厳かつ粗野な「沙漠の掟」として受けとめられてきただろうかの予言者の言葉は、しかしながらむしろ、きわめて敏腕で慧眼な宗教国家の律法者としてのそれであったようである。

 かの聖典の句について、井筒俊彦は次のように註釈している。

 ――つまり一人に対して同格の者一人の復讐である。(従って)一人殺されたのに、その復讐として相手側の人々をむやみに幾人も殺すというイスラム以前のならわしはもはや許されない。相手の当事者が復讐として犯人を殺すかわりに、いわゆる「血の価」、例えば駱駝何頭の支払いで満足する場合には、そうした形で罪を償うことができる。従来は、こちらが一人殺されたら相手の部族の百人を殺せ式でやっていたから、いたずらに生命の損失ばかり多かった。今度の新規定はアラブの復讐心を合理的に満足させ、しかも生命の喪失を最少限度にくいとめようとするものである――

 井筒はそこに、初期のメッカ時代のムハンマドが発した熱情的な巫者としての詩篇のような言葉とは表情の異なる、メディナに移り、後にサラセンと呼ばれることになる国家を創り上げ統治運営していこうとしている者の散文的なリアリストとしての顔を見ている。『コーラン』において、前者はメッカ啓示、後者はメディナ啓示と呼ばれる。

 確かに、同害復讐の考え方そのものは、現在判明しているところでは紀元前十八世紀に古代バビロニア第一王朝第六代の王ハンムラピによって制定された楔形文字法典、いわゆるハムラビ法典にまで遡りうると言われ、つまりイスラムが興るはるか二十数世紀以前から弘くアラブ世界に存在していた原初的な刑罰形態だったようだ。してみると、七世紀のメディナの預言者の言葉は、むしろそれらを整理し邪悪な解釈を戒め水平主義的に洗練させていった統治術の精華のように聞こえてくることだろう。アレクサンダー帝国からプトレマイオス朝のアレクサンドリアを通じてアラブ世界に浸透していったヘレニズムの知もまた、そこに作用していたかも知れない。

 1991年冬の合州国大統領ジョージ・ブッシュの行いに、その判断の基礎を与えたであろう思考法が、このようなイスラムの叡智にはるかに劣るものであったことは明らかである。

 石油一バーレルはアラブ人千人の命に匹敵する、とでも言いたげな現代西欧のデモクラティズムとは一体何なのか。



 一人のパレスチナ人の声を聴こう。

 すなわち、1935年イギリス委任統治下のエルサレムに生まれ、カイロで教育を受け、そしてアメリカに渡ったパレスチナ人。つまりシオニストによるイスラエル建国によって母郷フィラスティーンを追われた難民の一人であるエドワード・W・サイードは、その著書『カヴァリング・イスラム』(イスラムを報道/隠蔽する、邦題『イスラム報道』)の中で、まず「西洋が非西洋世界について身につけている知識の大部分は植民地主義を通じて得たものである」と喝破した上で、他者の文化を理解するために不可欠な二つの前提条件を挙げている。

 第一にそれは、理解しようとする者は自らの対象とする文化および人々に責任を持ち、かつそれらと強制されることなく接触していると自覚していること。

 第二に、知識とは始源のオリジナルなき不断の解釈の運動である――とするミシェル・フーコーが生涯にわたって奏で続けた「真理」批判のテーゼを基調低音としつつ、解釈とは社会的な活動であり、政治的社会的な状況と濃密に絡み合っていること。従って解釈はこの状況を無視できないし、異文化へのいかなる解釈も自らの置かれた状況自体の解釈なしには完全ではありえないと知ること、としている。

 サイードはこの確認の後、異質文化の中で生まれたテキストを読む際に最初に意識されるべきことは、当のテキストと解釈者の置かれた時間的、空間的な位置との間の「距離」であると強調している。

 今このことがもう一度確認されなくてはならないであろう。電子メディアの惑星的なネットワークがこの「距離」をゼロにしたと見えるのは、明らかに一つの幻覚なのである。

 しかし、とパレスチナ人は続ける。

 にもかかわらずアメリカにおいて、旧来のオリエンタリストや国務省や石油産業と結びついた「地域研究(エリア・スタデイ)」のスペシャリストたちは、こうした距離を「権威」に、さらには「利益」に転化している……しかも、彼らのこうした学問的なあるいはジャーナリスティックな論議は、異邦性が理解しようとする者から何を奪ったのか、いかなる権力構造がそうした解釈を可能にしたのかについては何ら触れることなく、知識としての社会的ステイタスを得ているのだ、と。

 こうして彼は、「今日、西洋社会でイスラムについて書く人は、イスラムが敵対的な文化とみなされている事実や、専門学者がイスラムについて述べることが、総て企業や政府の影響を受けている事実を全く考慮に入れていない」と指摘し、「この二つの事実は、イスラムに対する解釈と知識をいわゆる“国家利益”に合致させ、権力者にとって好ましいものとさせるにあたって重大な役割を演じている」と論断している。

 1981年に提出されたサイードのこの著作は、二年前のイラン革命とその後のアメリカ大使館占拠事件を契機として現れてきたアメリカにおける知識人とメディアと権力の共犯関係を標的にして書かれたものなのだが、おそらくこれは、今回の「作戦」におけるプレジデント・ブッシュのスタッフに含まれていただろうアラビストたちの姿そのものに違いないだろう。

 ところで我々は、このような論述を含むサイードの書物の中から静かに囁きかけてくる、少なくとも二人の死者たちの声を聴き分けることができる筈である。二人とは、他ならぬ1961年に斃れたフランツ・ファノンと1984年に逝ったミシェル・フーコーのことである。

 「フーコーに出会ったファノン」。

 かつて私は、ようやく翻訳され我々の手元に届けられたサイードの書物を前にして、こんなフレーズを呟いたことがあった。思想を個人の名で略称してしまうことの不当を知りつつ、起こりえなかった出来事へのいささかの思い入れを込めて(『フーコー 批判的読解』所収のサイードによる「フーコーと権力の想像力」参照)。しかし今、大著『オリエンタリズム』などにも接することができるようになった後には、それを速やかに訂正したいと考えている。

 サイードの眼差しには、少なくとも次の四者の眼から見取られた世界の光景が重ね合わされているように思われる。

 第一に、最も真正な意味でのより公正な社会を求めるアメリカ市民としての視線。

 第二に、1980年以来コロンビア大学に職を得ることによってニューヨークの街に生き続ける、アラブ・パレスチナ人というエスニックなマイノリティとしての視線。

 そして最も深い所には、今もディアスポーラとインティファーダの途上にあるパレスチナの民としての視線があることは言うまでもないだろう。

 これに加えて、フーコーの薫陶を受けた者としてのノスタルジーなきアルシヴィスト(文献学者)の視線もまた常に寄り添っていることであろう(因みに、彼はムスリムではないことを付け加えておこう)。

 「サイードを読む」とは、このように幾重にも重ね合わされた彼の眼差しの動きの一つ一つを、読者自らが入念に辿り直していくことではないだろうか。それは決して単純なメディア批判や御用学者への批判には留まらない。パレスチナ人たちの長い苦闘の歴史がほとんど避け難く招来したのであろう、そのような重層化された主体としての位置の取り方。そして、それらの視点相互の間の微妙なズレと振動。これはファノンが遺した言葉の数々の中にも感じ取ることができたものなのだが、しかし、かつてなら直ちに民族解放運動の主体としての位置へと一元化されてしまったであろうそのような複数の視線の輻輳が、現在ではむしろサイードのテクストに他に得難い厚みを与え、彼の思想のしなるような勁さとなって現われてきているように思う。

 粉川哲夫を経由して送り届けられた、アメリカの反戦運動の様々な画像をニューヨークの自由TV局ペイパータイガーTVが編集した『湾岸クライシス・プロジェクト』のヴィデオに、幾度となく映し出されるサイードの姿。

 『オリエンタリズム』がアカデミックなフィロロジー(文献学)の書物であるとしたら、『カヴァリング・イスラム』はジャーナリスティックなフィルモロジー(映像学)、特にTVを対象とした分析の側面を持つ。

 とすれば、コロンビアのホールの壇上に立ち、やや高いよく通る声で熱心に聴衆に語りかけるサイードの大きな黒縁メガネの中の眼球に映っている世界とは、CNN特別取材クルーから送られてくる映像ではもちろんなく、以上のような複数の視線に映じた複数の光景が自らの強い意志の下にリミックスされて綾なされる、振動する廃墟の光景なのではないだろうか。



 コーランの解釈をめぐって、初期の正統四大法学派以来多くの教理学者たちの間で永い教義論争が続けられてきたものの、神秘主義的なスーフィー教団などを除いておおむねイスラム教において「音楽」は、中世の宗教典礼用のそれであれ西欧近代的な意味でのそれであれ、まさしくミューズ(愉楽)であるが故に酒や麻薬とともに禁じられてきたようである。

 イスラム教徒に礼拝の刻を告げる呼びかけの声であるアザーンは、専業の朗唱師ムアッジンによってモスクの尖塔ミナレットの上から声高らかに唱えられる。メッカのカーバ神殿での大群衆を前にしたその音と映像の記録に接した人も多いことだろう。しかし、異教徒には明らかにアラブ古典音楽の旋法の一種に則っているように聴こえるその読誦法キアーラも、一般の音楽としての歌唱と混同されないための細かい唱え方の規則があり、読誦者クッラーは正統と認められる流儀の中でしかるべく修業をしなければならないのだという。

 しかしながら、1957年には、まだ井筒俊彦も次のような音楽的な感興を述べることができたのである。

 ――『コーラン』の原語クルアーンとは、もと読誦を意味した。この聖典は目で読むよりも、文句の意味を理解するよりも、何よりも先にまず声高く朗誦されなければならない。考えてみるともう一昔も前になるが、初めて本格的なカーリウ(コーラン読み)の朗誦を聴いた時、僕はやっとこの回教という宗教の秘密がつかめたような気さえしたものだ。オペラのアリアを歌うテノールかソプラノのような張りのある高い声、溢れる音量の魅力、一語一語の末までも泌み渡っていく、いかにもオリエンタルという名の連想にふさわしい深い哀愁の翳り。――(岩波文庫版『コーラン』解説)



 ――湾岸戦争のあとで、ワールド・ミュージックを聴くことは野蛮である。
と、1991年三月にテオドール・ヴィーゼングルント・アドルノの言明のひそみに倣って呟いてみせるのは、確かに軽薄の誂りを免がれないかも知れない。

 だがそれは、ジョージ・ブッシュやサダーム・フセインがかつてのアドルフ・ヒトラーの1%ほどの「迫力」も感じさせないような存在にすぎないからでも(1%でも十分だが……)、音楽の皮相な「社会的意味」など露ほども信じていなかったかのメランコリー哲学の徒の箴言を、平凡きわまりない「告発」のレベルにまで落としめ通俗化させようとしているからでもない。

 ブッシュは「迫力」がないからこそ存在価値があるのであり、サダームは、欧米のジャーナリズムによってあらかじめ「チャップリンによって演じられたヒトラー」の役柄を振り分けられていたのである。アドルノの警句を玩んで空疎なプロテスト音楽を奏でることくらい、時と場合によってはトランス・ナショナルな音楽産業とそのジャーナリズムの方が何百倍も軽々しくやってのけるだろう。

 そうではなく、こうした言葉が軽薄なのは、音楽の恐るべき軽薄さ、語の最も深い意味での戦慄すべき軽薄さと野蛮さに対して、余りにも無感覚で無防備だからである。むろんこれはアドルノへの批難ではない。むしろオマージュである。そして、凡百のワールド・ミュージック論者たちはこのことに全く鈍感である。

 さらに百歩譲って、「音楽は世界を吹きわたる風である」といった干からびた比喩が辛うじて成り立ちうる場面があったかも知れないことを認めてもよい。だが今年(1991年)の冬のこの「風」は、ちょうどチグリス・ユーフラテス河の上空あたりでハイテク兵器の弾頭に追い抜かれていったのである。まずこのことを認めなければ音楽の話など始まりよう筈もないだろう。

 かつて1984年に私は、この当時大韓航空機を撃墜したソ連空軍パイロットが基地との間で交わした交信を米軍レーダーが探知した音声記録と、音楽として演奏されているあらゆる楽音の類いとを、サンプリング・マシーンの出現を媒介にして一繋がりの同一の感覚平面上で聴き取り、等しなみに演奏の素材つまりマテリアルとしていくような、ある種のラディカルでマテリアリスティックなメタ音楽の可能性を示唆したことがあったと思う(「音楽=情報=政治をフィールドワークする」、『路上のマテリアリズム』所収)。この方向は、ブッチ・モリスにおいて、デヴィッド・モスにおいて、ハイナー・ゲッベルスにおいて、ゲシュタルト・エ・ジャイブにおいて、ボルビトマグースにおいて、そしてもちろん A-Musik やノープロブレムやマサカーやスケルトン・クルーにおいて様々な形で実現されてきたと言えるだろう。もちろんこれは「音楽」認識の問題であって、楽器としてのサンプラーの使用そのものとは直接関係がない。

 しかし、尖端的な軍事技術の中で極限の姿を現わす音環境サウンド・スケイプの変容と音楽認識の枠組みの鋭角的な変化という、こうした未来派的な事態が、現代の微細で操作的な電子テクノロジーによって歴史上初めてもたらされたものと考えるのは余りにも早計にすぎるだろう。

 すでに十六世紀から十八世紀にかけて、ヨーロッパ音楽はその形成途上の決定的な時期に似たような経験を持ったと言えるのではないだろうか。

 すなわち、1529年と1683年の二度にわたったオスマン・トルコ軍によるハプスブルグ帝国の首都ウィーンの長期包囲と、次いで十八世紀後半に起ったトルコ皇帝親衛隊軍楽隊の打楽器のリズムによる全ヨーロッパ席捲である。

 かつてカール・マルクスは「十六世紀における唯一の軍事的強国はオスマン・トルコであった」と述べているが、確かに1453年のスルタン・メフメット二世によるコンスタンティノープル陥落以降、トルコ陸海軍の軍事力は約四世紀にわたってヨーロッパ全域を脅かし続けてきた。その頂点となったのが、1529年の十五万のスレイマン大帝軍によるウィーン包囲と1683年の大宰相カラ・ムスタファ・パシャに率いられた三十万の大軍の第二次攻撃だった。実はこうした世界帝国としてのオスマン・トルコの形成過程を通じて、言語の全く異なる各地の被征服民族を混成したトルコの新軍イェニチェリ軍団を指揮統率し士気を鼓舞するために発達させられてきたのが、トルコ軍楽隊の打楽器音楽だったのである。小泉文夫は、ヨーロッパの総ての軍楽隊やブラス・バンドの起源はトルコにあると言っているが、オスマン・トルコのそれは、現在と違って後方ではなく戦闘部隊の最前線に配置されていたのだということを忘れてはならないだろう。そのドラムの音は味方の兵士に対する突撃の合図であるとともに、敵に向けた武器そのものだったのである。打楽器類自体が十一〜十二世紀の十字軍遠征によって初めてアラブの地からヨーロッパにもたらされたものだが、数百のドラムス群によって組織された打撃音の周期的で巨大な震動は、ハプスブルグ軍やプロテスタントとの闘いを中断して各地から駆けつけた神聖ローマ帝国諸侯の騎士たちを浮足立たせ、戦意を喪失させるのに十分な効果があったようだ。メガホンのような素朴な装置以外に、音響の人工的な増幅など思いも寄らなかった頃である。カテドラルの鐘の音などよりも、むしろカミナリや河川の急流や滝の落下する音などのような自然音の方が巨大な音響だった時代なのである。コンスタンティノープル攻略をキッカケとしてオスマン軍は世界史上初めて大口径の火砲を戦場に登場させていたが、その効果には、直接的破壊力だけでなく、軍楽隊のドラムをバックにした爆裂音の衝撃波も含まれていたという。トルコ軍楽のリズムは、産業革命の機械音に先駆けて中世末期のサウンド・スケイプに亀裂を生じさせ、地殻変動を惹き起したと言えるだろう。

 こうした「リズムの野蛮」の体験による衝撃が約一世紀後のヨーロッパに、今度は軍隊そのものではなく、軍楽隊のリズムを受け容れさせることになった。ジャズの流行より150年早く、トルコ皇帝親衛隊のブラスバンド・メフテルはヨーロッパ各地を駆け巡り、その音楽は大流行する。そしてまず大革命後のフランスにおいてナポレオンがトルコにならった優秀な軍楽隊を創設し、以後ヨーロッパ各国軍はそれに追随していく。

 それまで、モノフォニー単旋律の優美な流れや、ホモフォニーやポリフォニーの調和の形式美をめぐって展開してきたヨーロッパの音楽史は、ここでリズムの一撃を受けたと言えよう。マルチン・ルターはオスマン軍の来襲をキリスト教世界に対する「神罰たるトルコ人」として宗教改革の道を歩んだが、変貌を余儀なくされたのは教会だけではなかったのである。その意味で、音楽史家たちは軽視しているが、ヨーロッパ古典音楽が自ら「普遍的」と自負するところのその構成された情動の大伽藍が持つ力は、平均律や機能和声という「人工的に閉ざされた庭」(五十嵐一の言葉)の内部で自生していったのではなく、オリエントすなわち辺境野蛮の地からのリズムに多くを負っているのではないか。例えばモーツァルトの『トルコ行進曲』、そして、ベートーヴェンは1809〜10年の二年間に八つもの軍楽隊のための行進曲を作り、第五交響曲いわゆる『運命』の全篇を貫いて響きわたるあのティンパニーの打刻の中にさえ、トルコ軍楽隊のリズムが聴き取れると言う。

 それでは、同じくベートーヴェン晩期の謎めいた傑作『ミサ・ソレムニス』(壮厳ミサ曲)の中に、ヨーロッパ・ブルジョワジーの精神性の最高にしてかつ瀕死の達成をみたとするアドルノの精密な耳にとって、あの反復されるリズムの押し寄せるような力は一体どのように聴かれていたのだろうか?

 死後のアドルノは次のように答えることだろう。

 「『ミサ』における人間性の理念は、晩年のゲーテの場合と似て、神話的な深淵を痙攣的神話的に否認することによって、かろうじて立て通されている。『ミサ』は既成の宗教に救いを求めているのだが、そこには、孤独な個人が自然支配と反抗する自然の迫りくるカオスを一介の人間の自力で抑え切る自信を失ってしまった、といったところがある」(「異化された大作」、『楽興の時』所収)。

 もちろん1818〜23年にかけて作曲された『ミサ・ソレムニス』においてベートーヴェンに想起されていたのは、「理性の革命」としてのフランス革命とそれに続く王権勢力による反動攻勢というヨーロッパの混乱だったろう。そして1957年のアドルノが、そこに二十世紀中葉のスターリニズムとファシズムとアメリカニズムの攻防を重ね合わせていたのは明らかである。「啓蒙の失敗」の音楽的アレゴリーとして。しかしまさに「啓蒙の将軍」としてのボナパルトが、1798年ベートーヴェン二十八歳の時、オスマン領下のエジプトへ踏み込んでいったことの世界史的含意、つまりヨーロッパ啓蒙の始源に宿る「野蛮」の意味を再考するならば、むしろこの「反抗する自然の迫りくるカオス」から溢れ出てくるものは、オリエントからの「野蛮のリズム」に他ならなかったと言うべきだろう。糞尿を撒き散らしながら入城してくるナポレオン軍を見たカイロ市民がそこに発見したものは、実は「野蛮なヨーロッパ」そのものだったのである。もう一つの「啓蒙」としてのムスリムの叡智。ベートーヴェンの傑作は「啓蒙」と「野蛮」の激突するその縁から現れてくる。

 かのオスマンのリズムが、アドルノの示した「構造的聴取」の、その「構造」の外縁で鳴り響いていたことだけは確かだった。




 おそらくは、ヨーロッパによる他者の殺菌と囲い込みとしてのオリエンタリズムの、その音楽版における至高の形が、この辺りに現われてきていると言うこともできるだろう。

 だが、オリエントの地から押し寄せたイスラム教徒の大軍の地鳴りのようなリズムの震動が、オクシデントの地で今まさに華開こうとしていた音楽の在り方を大きく変えていったこともまた事実なのである。ローカル・ミュージックとしてのヨーロッパ音楽は多分この時「反復する強度」を獲得したことによって初めて、「世界音楽」としての強靱なガイストを形成していったのである。ハプスブルグ家とカトリック教会の重圧の下で、歪んだ真珠(ポルトガル語でバロック)のアートをたわわに実らせ、ドナウの畔で幾世代にもわたって数多くの音楽家たちを育んできたオーストリア、その地名の語源は、異教徒に対するオスト(東)の城塞と言われる。

 1991年初頭、アラブの大地を覆った巨大な爆撃音の間断なき持続は、彼の地の音楽をその深い所からどのように変化させていくことになるのだろうか。

 レバノンのファイルーズやカーリッド・アル=ハベルは、パキスタンのヌスラット・ファテ・アリ・ハーンは、アルジェリアやパリのライ・ミュージシャンたちは、ここから一体どんな音楽を創り出していくのか。

 我々は、あのハイテク兵器の無数の弾頭が向っていった方向とは真逆の方向に、音楽の根源的な軽薄さとその奥深い野蛮の力を成長させていこうではないか。

 その時再び、かのパレスチナ人の声が聴かれるべきであろう。とりわけ、あの四つの眼差しの重なり合う所から視えてくる振動する廃墟からの声を。

 一つの音楽を、複数の聴覚をもって聴き取ること。

 例えば電子メディアの惑星規模のネットワーク上に、ただ幻覚としてのみ成立する世界共和国市民の聴覚において。あるいは「日本文化」への統合を摺り抜け他者へと開かれてゆく、多数のアジアン・エスニックが交差する場としての東アジア人の聴覚において。そして何よりも、依然として血を吸い続ける側にいる、日本人マジョリティの悪辣な植民地主義の聴覚において。さらにまたここに、現在の総ての音楽を古楽として聴き、総ての古楽を未来の音楽として聴いていく、ノスタルジーなきアルシヴィストの耳が付け加えられるべきだろうか。

 こうした、いくつかの聴くことの快楽あるいは不快の衝突する只中において、私自身の「聴くことのエチカ」が浮かび上がってくることだろう。

目には目を、
歯には歯を。
そして、音楽には音楽を、
または、善意には善意を。

――1991・3



1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6