Heiner Goebbels Interview

竹田 去年、お会いしたときに、確か、万里の長城をテーマにした芝居を日本でやりたいということを言ってたんですが、今回もそのことで来たんでしょうか。
ゲッベルス 今回、来日しているのは、それをもう一歩先へ進めようという理由で来ているんですけれども、勅氏河原三郎氏とのコラボレイション、ディレクションに関しては、彼とのコラボレイションになりそうで、他には、音楽では大友良氏に関わってもらおうかと考えています。2年より早くはならないだろうと思いますが、リリースできることは確信しています。
竹田 上演じゃなくて、(録画・録音物としての)リリースなの?
ゲッベルス いや、芝居の上演です。
竹田 で、確か、テキストはカフカを使うって言ってたように思うんだけど?
ゲッベルス 『ビルディング・チャイニーズ・ウォール』(邦題『万里の長城』)というカフカのテキストを用いて行なうものです。
竹田 で、勅氏河原君だと、彼は、マイムですよね。しゃべらない行為、と考えているんですけど、その場合、テキストをしゃべる俳優というのは、別にいるんですか。
ゲッベルス 彼は、アイデアとか、コンストラクション、あと、ディレクションの上でこのプロジェクトに参加しているので、アクターは別に使います。
竹田 勅氏河原君とは、前からの知り合い?
ゲッベルス 2、3年前に彼がドイツで公演を行なったときからの知り合いです。大友氏は2年前、来日したときに、ロマニッシェス・カフェでジョン・キングとのコンサートで知り会いました。
竹田 ハイナーが芝居を作るっていうのは、たぶん、もう一人のハイナー、ハイナー・ミュラーが作るのとは全然違うだろうし、少なくとも演劇人が芝居を作ることと、音楽家が芝居を作ることとは大分違うだろうと思うんですよね。今度の芝居、その、カフカをテキストにして、万里の長城の芝居を、音楽家であるハイナーが作るという。どこらへんが主眼なのかな?
ゲッベルス 作曲家として仕事をするときは、どちらかというとディレクターのような気持ちで作曲を行なっています。例えば、他のミュージシャンとのコラボレイションを行なっているときには、そのミュージシャン本人の個性とかパワーを重視して、作曲を行なっています。例えば、アフリカのミュージシャンを使ったときは、アフリカのミュージシャンのアイデンティティを尊重し、アイデンティティはそのまま残しておいて、その周りのストラクチャーだけを変えるような形で作曲をしていくので、どちらかというとディレクターのような仕事の仕方をしています。
それとは別に、芝居を作っていくときに関してはその逆で、音楽的な考え方、コンポーザーとして、音楽を作るように盛り上げていって、切り裂いたりして、元来の(竹田「意味論的な」)伝統的な、言語を重視した芝居から、視点をずらすというか、その視点を壊してしまうといった作り方をします。
竹田 ぼくは、いま(ゲッベルスの言ったことが)とってもよく分かって。というのはぼくも、この2年ぐらいかな、ある小さい劇団とかかわって、一緒に何本か芝居を作ってきてるんだけども、自分で作るピースについては、一晩のコンサートを構成するような気持ちで、曲を並べる代わりに、色々な言葉やアクションを含む、演劇的なイヴェントを並べるという、そういう作り方をしているので、いまの話はとってもよく分かるんだけども。
ゲッベルス どのような題材を?
竹田 最初に自分の作品を作ったのは『ダイアローグ』というタイトルで。人と人とが出会ってしゃべり始める瞬間、ダイアローグが生まれてくるその瞬間をテーマにして、あのときは11個ぐらいの演劇的イヴェントを作って。あと、ここのところの連作は、夢の連作をしていて。それは、俳優たちに、ずっと何か月もの間、毎日、夢を見たとき必ずそれを記録してもらって、俳優たちは自分の見た夢を主なテキストとして、色々即興性も加えながら作っていくという、そういう作業をやっています。
ゲッベルス 自分自身のプロジェクトで、これは重要だから言っておきたいのですが、音楽は芝居においてもとても重要な要素であるということです。テキストと音楽の繋ぎ目となるもの、力強い繋ぎ目となるものをいま探っているところです。例えば、オペラのように、ただ単に言葉を歌に置き換えるとか、あるいは言葉だけが重視される劇というものではなく、テキストと音楽の二つの要素を加えて、その二つの力を合わせて、新たな第三の力(force)を作り上げていきたいと考えています。
竹田 やっぱり、その、台詞ひとつとってもね、ぼくはその台詞が持つイントネーションとかリズムとか、が気になるんですよね。きっとハイナーもそうだと思うんだ。
ゲッベルス そうですね。それも意味の一部であるから。
竹田 一方でね、音楽的訓練を受けていない役者さんたちにうたってもらう歌みたいなものを作ってみたりしてるんですよね。それは、なんていうかな、どちらかと言えば今度は、言葉の音素とか、そういったものを中心に考えて作った歌でも、役者さんに扱ってもらう、その、なんていうかな、意味の音楽性、みたいなことが現われてくるといいな、と。現われてき始めてるんじゃないか、って、まだ自分でも掴みきれてない概念だけど。
音のレベルで、音楽的に台詞を捉え直すっていうのもあるんだけれども、それと同時に、なんていうかな…意味が響き合うような、そういうことが、ああ、出来たかな、と思う瞬間があると、すごく、これは純粋に音楽だけだったら、ちょっとこれは掴めなかっただろうなっていう、そういう面白みがある、と(思うんだけれども)。
ゲッベルス おっしゃることは、はっきりとは分かりませんが、私はもしかしたら、あなたとは反対の立場にいるかも知れません。というのは、言葉をあまり重くみることは反対だからです。例えば、血、とか、心、という言葉を、それだけを重々しく言ってしまうということには反対です。自分が好ましく思っているのは、色々な要素から距離を置いて、例えば、リスナーとか観客がその距離から離れているものをそれぞれ感受して、それらの要素を合わせていく、ということです。そのために、なるべく多くの要素を入れて、それぞれが力のあるものとしてみなしていきたい、力のある存在としてみなして、それらの要素を置いていきたいと思う。いままでの芝居においてはヒエラルキーがある――テキスト、役者、セットや照明、音楽、それぞれ重要なものからそうでないものという段階があるものだといままではされてきたけれども、それをなくしていきたいと思います。それぞれの要素を、バランスを取って、同じレベルでみていきたい。例えば、照明が、言葉よりもずっと効果があったり、意味を伝えるのに有効である場合がありうるのです。
竹田 おかしいんだよね。日本で、演劇評論家がね、芝居を観に来るでしょ。それについて演劇評を書くためにね、テキストをよこせと言うことが大変多いらしくて。
ゲッベルス フランス語で作られた芝居をドイツで上演したら大成功だったということがありました。ドイツ人の観客はフランス語を解しませんでしたが。
竹田 ほんとうはね、観ている人、演劇評論家だとかじゃなくて、普通に観に来る人はそういうことはないんだけれども。演劇でも、音楽でも同じだと思うんだけども、その場所で生まれてくるリアリティ、現実性としてね、作る人はそうやって作ろうとしているんだけども、でも、それこそ演劇のヒエラルキーは、これまでは、その場で生まれてくることっていうのはテキストの再現でしかない、っていうのが演劇のなかに根強く残ってると思うんですよね。それは、音楽でもやっぱり、まだまだそういう気分はあるんじゃないかな。
ゲッベルス ドイツでも、テキストに、あるテーマを用いた場合、そればかりが重視されるので、音楽や視覚的な要素を、より打ち出さないといけない場合はありますね。
例えば、テキストがまったくない作品を作ってみたり、ステージ上のひとつの動きが非常に長い作品を作ってみたり、要素がそれぞれ一人立ちできるくらいの存在感のあるものを作ってきています。ここにある写真は、ライト・プレイだけの作品の一場面で、けっして照明が“ヘルプ”としてではなく、ひとつの重要な要素として、それが存在するだけで十分だといえるようなものです。
竹田 写真を観ると、ハイナーのはステージ・セットも素敵なんだよね。
ゲッベルス というのも、セットの中で新しいリアリティを作っていきたいから。例えば、家とか庭とか小川が出てくる作品だったら、普通の劇だったらそこに家とか庭とか小川をセットするでしょうが、そういうものは置かない。そういうものがテキストに出てくるのだったら、ダブらせたくはないのです。テキストとの繋がりは残しながら、新しいリアリティの空間を作っていきたいのです。
竹田 それは、やっぱり、たぶん、音楽家としてはね、よく頼まれるでしょ。音楽は劇を説明することを要求される場面が多いと思うんですよね。だけど、やっぱり、説明したくないですもんね。
ゲッベルス 音楽をつける場合には、解釈であってはいけないと思う。その芝居の構造を透明にさせるような仕方で音楽を作って行きたいと思います。
竹田 で、まさにその、テキストに対する透明性を確保する、というのは口ではまったくその通りなんだけど、実は結構難しかったりするんじゃないかと思うんですけど。
ゲッベルス よく自分が使うのは、ノンドラマティックなテキスト、シアターのために書かれたものではないテキストを用いることが多いのですが、そういう場合は書かれたテキストの内部の構造が非常にしっかりしているものが多いのです。ひとつの完全な構造を持っているので、それを解釈するのではなくその構造分析を行なう、そしてその分析を観客に提示することによって、そのテキストに対する理解を深めてさせていく形をとっています。テキストの中で、長い文章や短い文章、また色彩とかそういった要素についての分析を行ない、その分析を観客に提示するということです。例えば“Shadow”とか“The Man In The Elevator”などについては、それを実際に上演する前に、半年ほどかけてそのテキストの分析を行ないました。
もうひとつ、テキストを取り上げるときに、けっして取り上げる段階で自分からある決められた音楽的アイデアを持って接することは避けています。まず、そのテキストを調べ、そこからどのような音楽的可能性が出てくるかを考える。歌とかストリングス・カルテットとか、どのような音楽が生まれてくるかを考えて、音楽を作ります。
竹田 いまも、ラジオ・ドラマの作品の例が出たけれども、ラジオ・ドラマのように、記録されることが可能な作品と、それから舞台で上演される作品と、その間に実は結構大きな溝があるんじゃないかと思うんですけど。
ゲッベルス 実のところ、舞台の作品を後でラジオ・ドラマにすることが多いのです。というのは、音として一人立ちできるぐらいの強い要素を持っているから。例えば、「シュリーマンス・レイディオ」(?)や「ローマン・ドッグス」といった作品は舞台からラジオ・ドラマに移し変えたものでした。「プロメテウスの解放」もそうです。
竹田 だけどね(笑)、上演される舞台っていうのは、同じ場所に観客がいる、そのことが、決定的に他の何か、ラジオ・ドラマとか、演劇をヴィデオ化したものとかとは決定的に異なることだろうと感じてるんですよね。
ゲッベルス いや、ラジオ・ドラマとして放送するときも、実は放送局で、観衆を前にしてパフォーマンスをしているんですよ。
竹田 ぼくにとってね、演劇という形態に関わるひとつの大きな問題は、そこの場所に観客がいるということ、観客とどういう関係を作るかっていうことも、作品の構造のなかにそれを位置付けることなしに作ることはできない、と思うんです。いろんな試みをして成功することも失敗することもあるんだけれども。
ゲッベルス 自分の考えていることもそれに近い気がします。なぜなら、観客というのは自分の作品のなかで大切な役割を担っていいるから。自分が芝居を作っていくうえで、テーマとか焦点というものを空白にしておき、その空白の周りの要素だけを作っていく、そして、空白を埋めるのが観客の役割であるというわけです。
竹田 (彼の作品は)大変、広い意味での政治的なテーマは持っている、と言ってたと思うんだけども、それは、もう少し具体的にはどういうことなんだろう?
ゲッベルス それは、演劇自体に対するアプローチとして、自分が用いている手法がポリティカルだと言えるかもしれない、ということです。先ほど言ったような、観客によって焦点が定められるということが、例えばそうです。いままでの演劇のような、舞台の上からメッセージが発されそれを観客が受容する、という役割分担を壊すこと。観客が参加することで、芝居の焦点が定められるというその行為自体が、広い意味で政治的かも知れない、ということです。
もっと具体的な、政治的な話をしますと、最近いくつか手がけた作品で、そのテーマが政治的なもの、「ローマン・ドッグ」と「×××」(フランス語)というものがあります。それらのテーマは、文明とか、ストレンジネス――人と人との違いをどのようにして受け止めていくかということで、現在のドイツでの外国人人口の割合が高まっていること、そこから発生する暴力的な問題を関連させています。どのようにして対立している者同士がコミュニケイトしていくのか、違いをどのようにして乗り越えていくのか、違いがありながらも共存していくのか、といったことです。
竹田 ハイナーの芝居のなかでは、即興の要素っていうのは使ってますか。
ゲッベルス 使っています。先ほど言った芝居の要素というもののなかでミュージシャンというのは非常に重要な要素であり、ときにはミュージシャンが役者なのか、あるいは音がテーマなのか、という風に思わせるほど重要な要素のひとつです。自分が芝居に起用するミュージシャンは、即興音楽畑の場合が多いですね。例えばスエイン・ヨハンセン(?)とか、カトリーヌ・ジョニオー、イヴォ・ベール、最近の作品ではジョン・キングとマリー・ボイエ。彼らを起用するときには、彼らが即興をできる余地を必ず残しておくよう、注意しています。もちろん、劇の中なので、決められた余地ではありますが。
竹田 ぼくの作っているものも、いつもインプロヴィゼイションは大変重要で、ぼくがやってきた音楽のなかでもインプロヴィゼイションは大切にしてきたように、芝居でもインプロヴィゼイションを、大変大きな要素として使ってるんですけど、もうひとつ、舞台俳優にも即興を要求してるんですよ。体の即興は、ダンスからもいろいろ学んでいることはあると思うんですけど、それに加えて言葉の即興をね、いろいろ試みているんですけど、とてもチャレンジングですよ。
ゲッベルス 言葉の即興というのは、私はしませんね。というのも、それぞれの要素が複雑に関連しあっているから。
竹田 やっぱり、小さい劇団で、俳優たちが長期間のリハーサルを要求できるんで、ぼくの場合はそれが可能になってるかなって気がする。
あと、質問は? 北里さん?
北里 あの、ハイナーさんの芝居に出てくるミュージシャンというのは、インプロヴィゼイションというよりはパフォーマーという風に見えるんですが、舞台に立つパフォーマーということでミュージシャンを選ぶという意識はありますか。
ゲッベルス 選ぶ基準は四つあります。どんな楽器か、ミュージシャンの存在感やパフォーマンスの能力はどの程度か、新しい可能性を発揮してくれるかどうか。例えば、そこの写真にもうつっているマリー・ゴイエというカナダ人の女性ピアニスト。もともとピアニストとして選んだのですが、結局ひとつの役を演じました。
北里 その場合の役というのは、ロール・プレイングではないわけですよね? 彼女の場合は?
ゲッベルス 台詞のある役者です。
北里 役者をやるときとミュージシャンをやるときでは、違いがあります? 役者をやる演技のときの方が不満が多いとか?
ゲッベルス もちろん、最初はミュージシャンとして選んだわけですから、音楽について期待通りであることは確かです。でも、その音楽家兼役者に役者として要求するものは、けっしてそのレベルを落としたりすることはありません。
例えば、マリー・ゴイエの場合も、同じ舞台に立つのはゴダールの映画にも出演したことのある役者でしたが、けっしてひけはとりませんでした。自分の作劇は、どちらかというと映画に近いものかも知れません。というのも、舞台で大きな声を出さなければいけないとか、そういうことは要求していないくて、マイクを使ったりしているものですから。
北里 ゲッベルスさんのような芝居を、ほかにもやってる方はいらっしゃるんですか。
ゲッベルス いませんね。
北里 孤独を感じたりしません?
ゲッベルス クリストフ・マータラーとか、彼の芝居を観たことはないけれど、やはり音楽的なアプローチをとっているみたいですね。あとは、70年代のボブ・ウィルソンとか。
竹田 CD-ROMというメディアの可能性については?
ゲッベルス 自分は持っていませんからねぇ…息子は持っていますが。レジデンツのCD−ROMを見たことなんかはありますよ。可能性としては、音楽において、ミックスをしたり、新たなミックスの際に参加したりする面では面白いかもしれないし、オプションとしてヴィジュアルの要素を付け加えるということでは面白いかもしれません。
竹田 当面は、拡張されたライナーノーツとして使ってみようかなと思ってます。
ゲッベルス 特に、実験的な音楽や即興音楽においてはライヴの要素というのが非常に重要ですし、そうしたものはテープで聞くだけでは面白くはありませんから、ヴィジュアルな面を加えて、どのようにしてその作品が作り上げられたのかという過程を見ることができるのだとすれば、新たな可能性を持っているかも知れない。例えば大友良英が作品を作り上げていくのに、どのようにしてプロダクションをしていくのかということを見られたら、面白くなっていくのではないでしょうか。

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北里義之(音場舎)