平和に生きる権利(El  Drecho de Vivre en Paz))
チリ 作詞/作曲:Victor Jara | 訳詞:中川 敬
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竹田賢一(大正琴)、小山哲人(bass)、岩館洋(alto saxophone)、大熊亘(clarinet)、千野秀一(piano)、中尾勘二(drums)
ゲスト: 春日博文(guitar)、 関島岳郎(trombone)、中川 敬(vocal)
text ビクトル・ハラ「平和に生きる権利」ライナーノート (崎山 政毅 )

ビクトル・ハラ「平和に生きる権利」ライナーノート (崎山 政毅 )

 1973年9月11日。その日、彼は、サンティアゴ工科大学で開かれる予定になっていた「スペイン内戦とファシズムの恐怖」展覧会での記念講演を依頼されていた。

 朝、会場へ向かうために家を出ようとしたそのとき、せっぱつまったラジオの声を聞き、彼は足を止めた。大統領サルバドール・アジェンデが急ぎ呼びかけていたのだ。「すべての労働者諸君、それぞれの持ち場についてください!」

 陸軍司令官・将軍アウグスト・ピノチェトに率いられたチリ三軍が、反アジェンデのクーデターをおこしたのである。その名目は「秩序の回復」だった。

 1970年9月4日。2週間後の独立記念日にあわせておこなわれる「祖国祭」をひかえ、街には春のおとずれがはっきりと感じられる。この日、チリは一躍世界の耳目をあつめることとなった。6年ごとに巡ってくる大統領選で、「人民連合」の候補者で社会党首だったアジェンデが当選したのである。これまでとはことなる《革命》、選挙をつうじての社会主義へむけた勝利。「ワインとエンパナーダ(具だくさんのパイ)の革命」とアジェンデは自らの勝利を表現した。それはたしかに、19世紀の独立以降、チリの民衆―労働者、農民、そして都市貧民たちもがはっきりとその一員である肉体をそなえた具体的な民衆が自ら選びかちとった、はじめての政府であった。

 つぎつぎと改革政策がうちだされる。アメリカ合州国系大資本が搾取を思うままにしてきた大銅山が国有化され、労働者の賃金はひきあげられた。農地改革で大土地所有が解体され、貧農たちにも農地が分け与えられた。子供たちには一日半リットルの牛乳、都市周辺部のポブラシオーン(貧民地区)にすむ人々にはレンガ造りの集合住宅。何もかもが、とつぜん進みはじめたように思われた。

 劣悪な労働条件下で苦しんできた中小・零細企業の労働者は工場を占拠し、生産の自主管理をおこない、経営参加権の要求を昨日まで自分たちをこきつかってきた資本家たちにつきつけた。土地を持たない貧農や農業労働者は、大地主たちが「禁止」する組合を結成し、地主の農場を占拠した。農村の疲弊で都市に流入してきた人々、家をもたない都市下層の民衆は、空き地を占拠し、そこに自分たちのコミュニティをあたらしく創り出した。自由に何かを考え、求め、実行に移すことができる! それはこれまで気がつかなかった、気がつくことを許されなかった、あたりまえの次の一歩であるように、人々には感じられた。

 一方、アジェンデ政権のとった政策は、さまざまなところで問題に衝突する。赤字財政をてこにした景気拡大政策は、通貨量の急激な伸張をもたらし、インフレの昂進に結果した。性急な企業の国有化政策や農地改革は経済効率の停滞・下落をまねき、資本家や大地主だけでなく、どっちつかずの態度を示してきた商人やホワイト・カラーなど中産階級のつよい反発をまねいた。運輸業者・貿易業者の「ストライキ」、それに端を発する物不足、闇市場の横行…。自由な空気がうみだした労働者の生産自主管理、農民の農場占拠、都市下層民衆の土地占拠は、階級対立を尖鋭化させた。さらに、アジェンデの支持母体、左翼の党派連合だった「人民連合」の内部でも、政策をめぐって対立がふかまっていく。危機が加速しはじめたのだ。

 もちろん、この危機がふかまる過程を、北方の強大な帝国主義国家が見逃すはずもなかった。アジェンデ政権成立のそのときからチリは狙われており、危機を意図的につくりだす策謀がはたらきかけられていたのである。アジェンデの勝利にさいして、当時の合州国国務長官キッシンジャーは次のように述べた。「国民の無責任さからある国が共産主義にむかうことを座視していなければならない理由を私は理解できない」。反共と傲慢きわまる支配への欲望ではひけをとらない大統領ニクソンは、いかにも腐った陰謀が好きなこの男らしく、CIA長官に軍事クーデターを組織するよう命令した。

 そして、アジェンデ政権成立から3年と数日がすぎたこの日の早朝、バルパライソ沖合に合州国海軍と合同で「演習」をしていたチリ海軍艦船が集結したと同時に、ピノチェトのクーデターが開始されたのである。強大な米軍を後ろ盾にしたピノチェトの軍は、首都サンティアゴのなかでアジェンデ派あるいは「共産主義者の巣」と彼らがみなした場所―大学、労働者が自主管理する工場、戦闘的なポブラシオーンなどなど―を空爆し、殺戮をすすめていく。アジェンデはモネダ宮(大統領宮殿)から徹底抗戦をよびかけ、自らも銃をとってたたかった。だが、抵抗もむなしく、アジェンデは銃撃戦のなかで斃れた。

 冒頭の彼にもどろう。アジェンデのよびかけに足を止めた彼の名は、ビクトル・ハラ。1960年代にラテンアメリカ全域で興った「ヌエバ・カンシオーン(新しい歌)」運動の中心的な担い手のひとりであった。

 ヌエバ・カンシオーンは、低開発下での政治的な抑圧や社会的な不平等の感覚、62年のキューバ・ピッグズ湾侵攻(プラジャ・ヒロン事件)や64年から65年にかけてのドミニカにたいする露骨な干渉が引き起こした北米帝国主義への批判的な意識を核にうみだされた。「音楽表現における社会批判」の運動であるといってよいだろう。この運動の背景には同時に、合州国への経済的従属がもたらしたマス・メディアの展開によって、自分たちの聞いている音楽が北米商業音楽資本による文化支配をつよく受けている、という状況認識も存在していた。

 ちょうどこの時期、50年代から60年代にかけて、アルゼンチンとチリの政府は、ラジオでかける音楽の一定の割合―大部分だったのだが―を「自国の音楽」にあてるよう政策でさだめていた。そのため、合州国で加工され逆輸入されてくる「自国の伝統的な音楽」ばかりでなく、たとえばチリではビオレータ・パラやビクトル・ハラ、アルゼンチンではアタワルパ・ユパンキのような、社会批判を色濃くもつ「危険な」歌手や作曲家の音楽も、メディアにのる機会を与えられたのである。

 これは、チリにおいては、低開発が構造化した歪んだ経済発展による都市化と失業の進展、激化する階級的な格差が、政治の流動化をおこし、大衆動員型の政治が支配的になる過程と軌を一にしている。今世紀のラテンアメリカでは、政治的な危機や流動化にたいして、国民主義の組織化によってそれを統御し危機を回避しようとする動きが繰り返されてきた。チリの場合も例外ではない。そして、動員には人をひきつけ統合するイデオロギー的な核が必要だ、とする政治のテクノロジーが見い出したのは、先住民文化の要素をとりいれた「国民=民族の誇り」というテコだった。この「テコ」の必要性という政治的思惑は、思いもかけない結果につながった。そのひとつがヌエバ・カンシオーンである。

 搾取され疎外され貧困にあえいでいる存在として「批判されるべき現在」をあらわし、現在に連綿とつながる「混交文化の起源」という「復権されるべき過去」をあらわす先住民族のイメージが、このときに使われた。チリでは人口のわずか5%(この統計そのものがくせものなのだ)のマイノリティである先住民族マプーチェの人々が、「伝統文化と国民的な誇りの源泉」とされた。こうした「先住民族」の表象には、深く植民地主義と人種主義が歴史的に刻み込んだトラウマが、ぱっくりと傷口を開けていることは、いうまでもない。だが、この時点では、周辺化され貧困と搾取にあえいでいる先住民族への主観的な連帯、そして、先住民族文化と植民者の文化との「混交」の歴史が生んだ「われわれ」という観念が、何にもましてあらたな政治的統合の核となったのだ。

 チリのヌエバ・カンシオーンの担い手たち、とりわけ「キラパジュン」や「インティ=イジマーニ」といった学生・青年を中心としたグループは、南部のマプーチェの音楽や北部アンデス高地の民衆音楽であるワイノをはじめとした先住民族の音楽様式を積極的に取り入れた。それだけにとどまらず、演奏のさいにポンチョを着たり、先住民族の「伝統的」な楽器やスペイン系・アフリカ系の楽器をおりまぜて使うといったスタイルをつくりあげた。ギターが刻む八分の六拍子にのせて、そのときどきの政治的な出来事への批判をおりこみながら、労働者のたたかいを歌うクェーカのような舞踊音楽が、よく歌われた。ヌエバ・カンシオーンの運動は、こうした試みによって、「政治的に活発なあたらしい世代による、ラテンアメリカ的な文化・政治にたいする覚醒と帰属意識の確立」(ジャン・フェアリー)をしようとしたのである。

 この運動の中でもっとも名の知られた歌い手のひとりであり、「人民連合」のテーマ曲『ベンセレーモス(われわれは勝利する)』の作曲者、そしてチリ共産党の党員であった人物が、ビクトル・ハラである。
そしてクーデターの日、彼はアジェンデの呼びかけにしたがって、その日の「自分の持ち場」である国立工科大学へとむかった。彼が到着した時、大学には、ラジオ放送を聞いてクーデターに抵抗してたたかうべく数千人の学生、教員が集まっていた。だが、アジェンデ政権の支持者やラディカルな議会外左翼である「左翼革命運動」の拠点だった工科大学は、すぐにピノチェトの軍によって完全に包囲され、外から封鎖されてしまった。
翌朝、包囲していたクーデター軍は大学に突入し、抵抗した学生たちを殺し、残りの全員を拘束した。ビクトル・ハラは有名であったため、「一目置かれた扱いをうけて」、あちらこちらから集められてきた、アジェンデ支持の、あるいは、左翼の知識人・学生・労働者とともに、サンティアゴ市内のボクシング・スタジアムに収容された。

 スタジアムに集められた人々の多くは殺害されることとなる。だが、エスカレートしていく暴力がつくりだそうとした「集団的記憶喪失」の間隙をぬって、われわれに伝えられているビクトル・ハラのエピソードがある。彼が収容されてから「抵抗の罪」によって殺されるまでの2日間の「記憶」を濃縮し、拡大しているにちがいないエピソードである。
それはおそらく、ピノチェトという暴力と腐敗によって、自由を汚され、尊厳を打ち砕かれ、怯懦を自らに強制しなければならなかった人びとが、強いられた残酷の受容という負債をかえす可能性を見い出すために伝えただろうエピソードだ。それは、こうあってほしい、きっとそうだったにちがいない、と人々が願った「膝を屈せずにたたかった英雄」の姿を伝えている。そして、ビクトル・ハラただ一人だけではない何人もの《ビクトル・ハラ》がいただろうという意味で、真実であると同様に神話でもある「記憶」にほかならない。
彼にかんするエピソード、もしくは途切れず伝えられた「記憶」は、このように伝えている。

 ピノチェトの軍によって拘束され、この「収容所」にかりたてられてきた人々、突然の暴力に打ちひしがれた彼の同胞たちを元気づけるため、ビクトル・ハラはギターをとって歌いだした。歌は『ベンセレーモス』。彼は、それまでのヌエバ・カンシオーンの活動で行なってきたのとまったく同じように、歌をもってするたたかいを、絶望感が支配的になりつつある状況のさなかで試みたのである。ピノチェトの兵士は彼をなぐり倒し、ギターを取り上げた。すると、ビクトル・ハラはこんどは手拍子で歌いだした。激怒した兵士は、ギターを抱き弦をつまびいてきた彼の両手を銃の台尻で叩き潰したうえで、彼のからだに銃弾を撃ち込んだ。兵士はこう叫んだという―「これでも歌えるものなら歌ってみろ、このろくでなしが!」

 このときに、ヌエバ・カンシオーンは死んだ。歌い手が人に聞かせる歌を歌うことを武器にして、人間をおしつぶそうとする力に闘いをいどんだヌエバ・カンシオーンが死んだ、といったほうが正確かもしれない。「新しい歌」とその歌い手が死んだ後、歌は表立って歌われなくなった。歌を歌うことが禁止されたからである。独裁者となったピノチェトは、念入りなことに、先住民族の楽器を使うことさえも禁止した。

 アメリカ合州国はいち早くこの小心なファシスト=大量殺人者の「新政権」を承認した。すぐさま日本も足並みを揃えた。合州国をはじめとするこれらの帝国主義国家群からは、大量の援助がチリに年々届くようになる。血にまみれたピノチェト軍事独裁は、こうして、後に「チリの奇跡」と呼ばれる「インフレ統制と経済発展」の「順調な一歩」を踏み出したのだった。「チリの奇跡」?アジェンデの外相だったオルランド・レテリエルがピノチェトの暗殺者によってワシントンで爆殺される直前に発表した論文によれば、「奇跡」とピノチェトの恐怖支配とはコインの裏表にすぎない。爆発的な上昇を示す乳幼児死亡率そして人口の四分の一にあたる無収入者の存在とひきかえの「順調なのびをしめすGNP」、かつてない人間狩りとひきかえのかつてない「経済的自由」。これこそ、一部の特権階級が享受する「奇跡」をささえた不可視の「基盤」となったのである。

 独裁による監視の目は、日常をおおった。暴力を独占しようとする輩はつねに、自分らが暴力をふるい抑圧してきた者が対抗暴力をふるう可能性、さらには暴力が廃絶される方へと人間の社会が歩を踏み出す可能性を完全につみとっておくことを欲するものだ。だが、こうした可能性とは、人間が生きていることそのものにほかならない。数えきれない人々が、ある日突然逮捕され、二度と帰ってこなかった。チリ人権委員会が推計した結果によると、父母あるいは祖父母が逮捕されたり拷問にあったり殺されたり行方不明になった子供は、チリ全土で90万人以上にのぼるという。

 この恐怖支配の下で「死んだ」うえに「禁止」までされたヌエバ・カンシオーンは、しかし、べつのかたちで生き延びていた。ごく普通の民衆が、人に聞かせるためでなく自らこっそりと口ずさむ、地下水脈の中、あるいは樹々の無数の葉がたてる葉擦れの中に隠れて、歌い継がれたのである。

 そして、ふたたび歌が公然と臆することなく歌われるようになるまでに、16年が必要だった。19年ぶりの「民主政治」の手続、1989年12月に実施されることとなった大統領選挙が、それを可能にしたのだった。

 選挙の1ケ月前になってようやく、独裁政権は、報道を含めた自由化の措置をとった。だが、たとえその措置がポーズにすぎなくとも、それがつくった「自由」は、変化を求める多数の声をチリ社会に響きわたらせるに充分だった。そして、16年の沈黙の後に公然と行なわれた政治キャンペーンにおいて、ヌエバ・カンシオーンがもっともよくとりあげたスタイルの音楽であるクェーカが登場したことは、大きな変化が起こる可能性をはっきりと人々に知らせたのである。

 軍政にノーを、というわずか27日間だけ、それも一日15分だけのテレビ・フィルムがそれだった。悲しみを湛えた、初老の女性の顔が写る。彼女の瞳はまっすぐに画面の方をむき、まるでその視線の先に視聴者をじっさいに見ているようだ。彼女は語る。「私は、アルフレド・ロハスの母親です。私の息子は1975年3月4日に逮捕され、行方不明になったままです」。彼女に、つぎつぎと別の女性たちがかさなっていく。「私の弟は…」「私の夫は…」、すべて行方不明者の肉親である女性たちの顔、顔。そして画面は、どこかの部屋の中で、何人もの女性たちを前にして一人の女性がギターのメロディにあわせてクェーカを躍るシーンに変わる。歌はなく、踊りは一人だけだ。だがクェーカは本来、にぎやかな歌声にあわせて、男女のカップルで踊るものなのだ。つまり、このシーンは問いかけているのである。なぜ女が一人でクェーカを歌声もなく踊らねばならないのだ、と。片割れの男はどこに行ったのだ、と。

 1989年12月14日。全投票有資格者の9割以上が登録し、投票所にむかった。彼らの多くは軍政にたいしてノーの声をあげるため、沈黙が強いた無関心の殻を破って投票に出向いたのである。そして、反軍政派の統一候補パトリシオ・エイルウィンが軍政派の候補を大差でやぶり、大統領に就任することとなった。1990年3月11日、ピノチェトは大統領肩章をエイルウィンにわたし、政権の座を去った。

 だが、それは本当に軍政の終わりだったのか? 状況はいまもってそうではないことを告げている。ピノチェトは今なお軍司令部にオフィスをかまえており、暴力装置がかわらず彼の支配下にあることを誇示している。クーデターから21年目の1994年9月11日、サンティアゴ市内で、アジェンデを追悼するために赤いカーネーションをたずさえて彼の墓に向かった7000名にものぼるデモ隊に対して、警察軍は催涙ガス弾と劇薬を混入した放水による弾圧を行なった。これはひとつの事件にすぎないが、すべてを象徴しているだろう。ぜんたい、赤いカーネーションで追悼の意をあらわすことの何が危険だというのか?まさか赤い色が危険というわけでもあるまい。

 おびえながら暮らすことがもはやなくなる日、平和に生きることが切なる要求ではなくなる日は、まだ、見えない。だが、軍政時代を生き延びてきた都市下層民衆の自律=自治の運動や、ふたたびの農地改革をもとめる農民たちの動きが、ごくわずかずつではあるが支配の網の目をかいくぐりつつ、あらたな抵抗領域をつくりだしてきてもいる。暴力に終わりをもたらし、あたりまえに平和に生きる世界を現実とするために、今このときも、たたかいは続いている。


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