預言者の死(Death of the Prophet)
パレスティナ/サーブリーン Sabreen
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竹田賢一(大正琴)、小山哲人(bass)、岩館洋(alto saxophone)、大熊亘(clarinet)、千野秀一(piano)、中尾勘二(drums)
text サーブリーンの詩 (山本 薫)
text 「預言者の死」に向き合って (岡田 剛士)

「預言者の死」に向き合って ( 岡田 剛士)

 A−MUSIKのライヴを初めて聴いたのは1983〜84年の山谷の越冬闘争でだったか、その次の越冬、あるいはそのあたりの日々のなかのどこかでだったか、今となっては明確ではない。83〜84年の山谷であれば、その越冬闘争の一夜に僕はシリア・アラブ共和国から抱えて帰ってきたカーヌーンという「アラブお琴」を、その闘いの一つの現場としての玉姫公園での「出し物」として演奏していた。その何日間かの寒くてドタバタした時間のなかでA−MUSIKに接していたのかもしれない。

サーブリーン『預言者の死』
(アクト・アイン、AAS001)
サーブリーン『預言者の死』
(アクト・アイン、AAS001)
 そして僕の記憶の風景はここから9年間ジャンプする。1992年12月に「豊穣な記憶−−パレスチナ・インティファーダ世代の音と映像」という実行委員会形式での取り組みをおこなった。これは、ベルギー在住のパレスチナ人映画監督ミシェル・クレイフィさんを日本に招請し、彼のパレスチナにかかわる映画4本を上映し、さらに被占領下パレスチナの東エルサレムで非常にユニークな音楽活動を継続する音楽グループ、サーブリーンのコンサートを日本で実現するという一連の企画だった。サーブリーンたちのCD『預言者の死』(アクト・アイン、AAS001)も、この企画の一環として同時期に発売した。

 要するに僕がそれまでかかわってきた「シコシコ路線」(もちろん今でもたいした違いはないが)のささやかなパレスチナ連帯の取り組みなどからすれば、想像を絶するような一大イヴェントだった。「素人集団」の主催ゆえのドタバタもあったし、今に引きつづく様々な矛盾もある。しかし、ともあれ多くの方々の支援を受けながら、なんとか一連の企画を実現することができた。この企画の構想段階から竹田賢一さんには相談に乗っていただいたし、実行委員会の呼びかけ人の一人として名前も連ねていただいた。そして、そのサーブリーンの京都公演では、だいなし(京都公演の主催者側のメンバーでもある)やフェダイン、寒天ホッパーズとともにA−MUSIKが共演した。そして東京の2回の公演ではサーブリーンの演奏する「ムーン・ダンス」に竹田賢一さんが大正琴で参加した。その2日目には、まあ添え物ではあったけれども僕もカーヌーンの演奏で参加していた。

 そんな訳で、僕のアラブ音楽とのかかわりあい、A−MUSIK、そしてサーブリーンは、僕の記憶のなかでは割と近しい位置関係にある。今回のアルバムでA−MUSIKがサーブリーンの楽曲「預言者の死」を取り上げ、また僕なぞに原稿の依頼がなされたのは、そうしたこれまでの経過もあってのことなのだろう。非常におおざっぱかもしれないが、とにかくこんなまとめ方ができると思う。

 個人的な経験として思い返すならば、サーブリーンという名前のバンドの音楽を僕が初めて聴いたのは1989年の始めだった。だから足掛け7年という時間が流れている。

 1989年11月、ベルリンの壁崩壊。12月、合州国・ソ連首脳のマルタ会談。1990年8月、イラクのクウェイト侵攻(湾岸危機)。10月、東西ドイツ統一。1991年1月、湾岸戦争。10月、マドリードで中東和平交渉が開始。12月、ソ連「崩壊」・独立国家共同体(CIS)設立−−例えば、こうしたいくつかの日付をひろってみるだけでも、中東とパレスチナを取り巻く状況、世界の枠組みが大きく変化していった日々だったということを確認できると思う。

 そして、この日々を被占領下パレスチナに引き付けてみるならば、現象的には1987年12月から開始されたといわれるインティファーダが、最初の2年間以降、次第にその闘いの性格を変えていった時期でもあった。例えば、「インティファーダはその有効性を減らし、基本的要素の大部分に否定的な影響を与えて、目立って後退しつつあるというのが事実なのだ。我々は、インティファーダがその1年目に顕著であった広範な大衆的形態から変化してきている、と語ることで秘密を暴露しようというのではない。〔中略〕インティファーダは、諸党派の活動へと変化し、しばしば分派主義と官僚主義に堕落した」〔*注1〕といった記述は、パレスチナ人たち自身の側からの厳しい認識として記憶にとどめておきたい。当初のインティファーダのなかではイスラエルでの日雇い労働の拒否や被占領地内での自給自足の取り組みなどもあったが、結局は自立的な経済構造を被占領下で作り出すことができなかった。それが決定的な要素だった、という分析もどこかで読んだ。大衆的なデモンストレイションのかわりに、「ナイフの戦争」といわれるような突発的な殺人や爆弾を使った軍事作戦が増加していった。

 さらに、湾岸戦争が開始された1991年1月17日以降、1ヶ月以上にわたって被占領下パレスチナの全域に外出禁止令がしかれた。150万人以上のパレスチナ人たちが事実上の自宅軟禁(ハウス・アレスト)の下に置かれたのだ。イスラエル占領軍によるこの長期間の封鎖は、大衆的な拡がりとしてのインティファーダに決定的な打撃を与えた−−今となっては、そう言わざるを得ないだろうと思う。

1990年3月 ガザ(写真:豊田直巳)
1990年3月 ガザ(写真:豊田直巳)

 このイラクの軍事的な敗北以降、この年の10月に開始されるマドリードでの中東和平交渉に向けて、政治的な駆け引きとしてのみ状況は煮詰まっていった。唯一の超大国となったアメリカ合州国は、その「新世界秩序」を中東世界にも適用すべくベーカー国務長官を中東に送り、中東和平交渉を準備した。湾岸危機の間にイラクを支持したPLO(パレスチナ解放機構)は、産油国からの経済援助を打ち切られて非常に弱体化した。それまで言葉の上ではかろうじて生き延びていた「アラブの大義」は、完全に無意味なものとなった。

 1993年9月のワシントンでの「暫定自治政府の取り決めにかんする諸原則宣言」調印は明らかにこうした一連のプロセスの延長線上にある。このあたりの経過を、オランダ人の地理学者でイスラエルの占領政策を丹念に追求しているヤン・デ・ヨングは、次のようにまとめている。
 
 「1982年から1992年までの10年間は、世界シオニスト機構の計画で目標とされたイスラエルによる入植と占領を『ふり払おう』とする〔アラビア語で「インティファーダ」〕パレスチナ人たちの企てとの間での新しいパワー・バランスに決定的な影響を与えた。アラブの一方的な敗北で始まり、もう一つの敗北で締め括られた10年だった。〔1982年のイスラエルのレバノン侵略の結果としてあった〕ベイルートの降伏と〔湾岸戦争の結果としてあった〕バグダードの降伏のはざまで、インティファーダは突出した抵抗をつづけた。インティファーダは、解放へと向けた前線を、キャンプや村や近隣の人々の日常生活に、つまり、のけ者にされつづけてきたと感じていた人々に据え戻すという絶望的な試みであったと捉えることができる。世界中の観衆の前では、醜悪な占領政策がかつてなかった程にイスラエルにとっての障害となった。〔中略〕しかしながら同時に、インティファーダは戦略的な不適切さという引き潮に流され始めており、大衆的な動員を減らしつつあった。民衆の決意はばらばらになり始め、湾岸戦争後に再び息を吹きかえした『パックス・アメリカーナ』によって脅迫を受け、そして『ボートに乗り遅れたくない』と考えた、そのような既存のパレスチナ指導部に道を譲りつつあった。差し出された救命イカダは、入植地の問題やイスラエルの占領地からの撤退、そしてエルサレムについては取り扱わないという、そのような交渉の形態をとっていたが、インティファーダに替わる選択肢のない中で、パレスチナ指導部によって掴み取られたのだ。パレスチナ指導部にとっては、インティファーダは救助の手がはるかに及ばない場所で沈みゆく船のようなものだった。そして、ついにパレスチナ指導部は、ワシントンがイスラエルにたいして圧力をかけて譲歩を実現するだろうという希望を抱きながら、オスロの海岸〔1993年のオスロ合意のこと〕に漂着した。ラビン首相の下での新しいイスラエル政府は、事実、占領と入植にかんする既存のイスラエルの政策を再検討し始めた。エルサレムと西岸の丘陵部を国家の心臓部として保持しつづけることの長所にたいする疑念はほとんど存在しなかったが、しかし、やはりイスラエルは費用と見返りの間の矛盾に、現実的な感覚で、また政治感覚においても気付き始めた。一方では冷戦の終結と、アメリカからの援助削減という脅しが、もう一方ではこの地域で唯一の経済的な強者としてのイスラエルという認識が、新しい方向での思考を刺激した。」〔*注2〕

 もちろん「オスロ以後」という状況では、日本の政府と資本も、その「新思考」に刺激を受けたといえるだろう。1991年9月、つまりはマドリードでの中東和平交渉の開始直前に(そしてPKO協力法案の国会提出よりも前に)、すでに自衛隊の陸上幕僚監部の幹部たち9人の調査団がゴラン高原のUNDOF(国連兵力引き離し監視軍)を含む中東地域の国連PKOを視察しているという事実は、なかなか示唆的だ。昨年(94年)からの一連の皇太子・雅子の中東訪問(皇室外交)も、去る(1995年)8月に決定されたUNDOFへの自衛隊派兵計画、さらにはレバノン(インフラ整備に100億円)とシリア(火力発電所に400億円)への大型円借款計画も、明らかに現在の中東和平プロセスをにらんでのものだ。これに「ただ乗り」する形での政治的・軍事的・経済的なアプローチ、つまりは新たな利権獲得の動きとしてみておく必要があるだろう。

 政府は口を開けば「中東和平への貢献」というが、この(95年)春のエジプト大統領ムバーラク来日時に決定されたスエズ運河架橋計画(150〜250億円の無償供与)にしても、「平和の掛け橋」との見出しで報道された一方で、実は「空母の通過できる高さの橋」だという。こうしたあたりに政府の言う「国際貢献」の欺瞞(というか、本質)が示されているだろう。なんともひどい時代状況になったものだとも思うが、要するにこうした一連の時代の経験のなかで僕はサーブリーンの音楽に出会い、「豊穣な記憶」という取り組みを通じて彼らとの交流を始め、そして継続してきた。

 前置きが長くて申し訳ない。しかしサーブリーンの音楽のことを考えても、また僕自身の問題意識からしても、以上のような背景と状況に触れざるを得ない。サーブリーンの音楽の魅力は、まずもってアラブの伝統的な楽器を使いながらも実現している新鮮なアンサンブルとヴォーカルにある。アラブの古典音楽や現代歌謡に親しんできた僕にとって、初めてテープで聴いた彼らのアンサンブルは、一つの奇跡のようですらあった。「預言者の死」についていえば、この曲とアルバムをサーブリーンたちが出したのは1988年。インティファーダの立ち上がりと、その最初期の若い死者たちを目撃するなかから発表されたアルバムだ。1992年の「豊穣な記憶」で来日した際にサーブリーンのリーダーであるサイード・ムラードさんは、「この『預言者』とは、インティファーダのなかで殺されていった子供たちのことだ」と、確かどこかで話していた。

 また、次のようなインタビュー記事もある。これは、1992年の春に平井玄さんと僕が被占領下パレスチナを訪れてサーブリーンたちと初めて会ったときに、資料としてもらってきた雑誌の記事だ。

 「・・・1987年にムラードは、彼が言うところの『政治的出来事』−−彼はそれ以上の説明はしなかった−−で2日前に死んだ友人を追悼する意味を込めて、アルバム“預言者の死”のタイトル曲を書いた。ムラードにとってこの表現は、どのようにして人間の魂が政治闘争で悲劇的に抑圧されるのか、また音楽がどのように痛みを癒し、解きほぐすのかということを示唆するものだったのだ。湾岸戦争は異なる秩序の衝突だった。つまりムラードにとって、それはイスラエルとパレスチナの間の緊急の闘争から遠く離れた、巨人たちの戦争だった(「合州国とイラクの後にはだれが居たのか−−神か?」)。サーブリーンの音楽は幅広い層から支持を得ているが、それはパレスチナ人たちを力付けるからだ。ムラードは言う。『けれども、この戦争は全ての人々に無力感を植え付けました。それは私たちみんなにとって、まさに“預言者の死”だったのです。』」〔*注3〕

 長期間にわたるイスラエルの占領は、その占領政策が単なる「統治」などではなく、パレスチナ人たちの社会や経済、文化、教育といった生活の全体に対して強いられつづけた抑圧であるがゆえに、一つの極限的な暴力だ。だから、その占領に対して開始されたインティファーダもまた、単なる「占領反対闘争」ではなく、大衆的な拡がりのなかで自分たち自身の自立的な社会を先行的に作り出してゆこうとする、占領に対する根源的な否の表明であり、さらには具体的かつ実際的な取り組みとして、当初はあった。だからこそ、その死者たちをサーブリーンは正当にも「預言者」と受け止め、彼らのアルバムのタイトルとした。僕は、そんな風に考えている。
 しかし、先に長々と書いてきたようにパレスチナ人たちを取り巻く状況は、さらに動きつづけている。暫定自治が西岸に拡大されるといっても、それは西岸にいくつかの自治地域の「飛び地」を作る一方で、圧倒的に広大な地域をイスラエルの占領の下に残すものだ。成り行きは全く不透明だし、さらに日本という国家自体がパレスチナ暫定自治の今後に様々な形でかかわってゆくことになるのだろう。そのなかでサーブリーンの「預言者の死」は、新たな変奏と展開をまとった楽曲として変化してゆくかもしれない。
 僕たちは僕たちなりの日々のなかから、何ごとかを構想し努力してゆくしかないのだろう。
(1995年9月27日 記)  

*注1:"State of Siege -- Problems of the Intifada", Democratic Palestine, No.46 - 47, Oct. 1991
*注2:Jan de Jong, "What Remains? Palestine After Oslo", NEWS FROM WITHIN, Vol.XI No.12 Dec. 1994, Alternative Information Center
*注3:Daniel Paller, "A Balm for The Dispirited --- Palestinian ensemble makes music out of conflict", The Jerusalem Report, March 21 1991

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付記:引用した訳文中〔 〕で括られている部分は、翻訳において訳者(岡田)が言葉を補った部分、あるいは訳注である。

サーブリーン協会


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