預言者の死(Death of the Prophet)
パレスティナ/サーブリーン Sabreen
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竹田賢一(大正琴)、小山哲人(bass)、岩館洋(alto saxophone)、大熊亘(clarinet)、千野秀一(piano)、中尾勘二(drums)
text サーブリーンの詩 (山本 薫)
text 「預言者の死」に向き合って (岡田 剛士)

サーブリーンの詩 (山本 薫)
 後ほどピーター・バラカン氏たちにサーブリーンの音楽の曲の部分の魅力についてはたっぷりお話しいただくことになっていますので、私は新作「ヒヤ・カム・ザ・ダブス」の訳詞者として、彼らの音楽のことばの部分の魅力について少し話をしてみたいと思います。

 私は今、サブリーンの音楽を2つの要素に分解して、それぞれを「曲」の部分、「ことば」の部分という言い方をしましたが、もちろん音楽は総合的な芸術であって、このように分解することは適切ではないかも知れません。ことにサーブリーンの音楽においては、意味やイメージだけでなくスタイルのうえでもこの二つはわかちがたく結びついているからです。しかしアラブ文学を勉強しているものとして、ここではあえて「ことば」の部分を取り出させていただいて、そこに見いだすことの出来る彼らの音楽的方向性やメッセージなどについて話をしたいと思っています。

 さてこの「ことば」ですが、音楽ではこれは普通「歌詞」といいますけれども、サーブリーンの場合には「詩」というほうが適切でしょう。なぜなら彼らが歌っている「ことば」というのは、歌われるために曲に合わせてつくられたものではなくて、それ自身で楽しまれ味あわれるものとして、詩人と呼ばれる人々によって書かれた、それ自体完結した作品にほかならないからです。

 今私は「歌われるためにつくられたものではない」と言いましたが、この表現はアラブ詩を語る際にはあまり適切ではないかも知れません。なぜならアラブ詩はその誕生以来、つねに「歌われて」きたと考えられているからです。

 現在私たちが知っているもっとも古いアラブの詩はだいたい西暦六世紀ごろにつくられたものだと考えられています。今では印刷された本のかたちで手にしている詩は、その当時は口頭で創られ、口伝えで広められました。つまり朗吟が詩の欠かせない一要素だったわけです。それが我々が思い描く「音楽」や「歌」と同じだとは言えないかも知れませんが、しかしウード、ダッフといった楽器やキヤーンとよばれる奴隷の歌姫たちの存在、詩人が「歌っていた」ことを示す史料がたくさん残されていますし、詩の韻律も音楽との結びつきを示唆しています。

 アラブ詩はそれ自身で完結した、ひじょうに完成度の高い言語作品ではありますが、一方でこのように楽器を伴って歌われるという伝統があり、詩と音楽は切っても切り放せない関係にあったわけです。ですから、たとえば「ムワッシャハ」というと私のように文学をやっているものにとってはアンダルス、つまりレコンキスタ以前のイスラム化したイベリア半島で生まれたアラブ詩の一形式だ、と思うわけですが、音楽が好きな人だとアラブの伝統歌謡の一形式だ、と思う。つまり「ムワッシャハ」というのは詩のスタイルであると同時に音楽のスタイルでもある。またアラビア語の方言でつくられる大衆的な詩のことを「ザジャル」といいますけれども、これはサーブリーンもよく聴いていたという、日常的なニュースのような短い言葉を織り込んだ民衆の歌のことでもあるわけです。

 こうした詩と音楽との関係はなにもアラブに限ったものではありませんが、とにかくアラブ文化において両者は密接に結びついてきた。それはお互いのスタイルを規定し合うほど密接な関係です。アラビア語というのは詩の朗唱や演説にぴったりのひじょうにリズムのある言語ですが、詩の言葉の連なり自身が持つリズム、つまり韻律ですが、それがアラブ音楽のリズムの形成に決定的な影響を与えたはずですし、また反対に「歌われる」という条件がアラブの詩の韻律に大きく左右したと考えられます。このようなわけですから、当然新しい詩のスタイルは新しい音楽のスタイルを生み、また新しい音楽のスタイルは新しい詩のスタイルを必要とする、と言うことができるでしょう。

 さてここらでサーブリーンの話に入りたいと思うのですが、彼らもまた、すでに存在する詩の作品に曲をつけて歌っています。つまり伝統的なアラブの詩と音楽の関係をひきついでいると言えます。これは、ダンサブルなリズムをことさらに強調して、そこにあほくさい歌詞をのっける、アラブ風ディスコミュージックが巷に溢れているというアラブのポップス・シーンの流れに逆行するものだと思います。また一方ではオーケストラをバックに詩をじっくりと歌いあげるような古典的なスタイル、またウードの弾き語りなどの渋いスタイルなどの歌手もたくさんいますけれども、いずれもサーブリーンの音楽とは一線を画している。というよりもサーブリーンの音楽がどんどん変容しているというか、旅をしているというか、越境していっているような感じがします。このような独自なサーブリーンの音の世界と詩の世界とは、これまでの話をふまえれば、当然密接に関係しているはずであり、事実そうであると私には思われるのであります。

 サーブリーンは一九九二年に来日して東京と京都でコンサートを行いましたが、その時のインタビューでボーカルのカメリアが、サーブリーンの音楽の変遷についてこう語ってくれました。「その頃はロックやポップスが盛んで、サーブリーンが結成された当時もロック・バンドの編成だった。その後、何人かのアラブの有名な詩人の作品に曲を付けて演奏するようになったんだけど、そのうち、西洋楽器だけを使ってパレスチナの今の現実、自分たちの思想や感情を表現することに矛盾と限界を感じ始めたの。その時点に達したところでアラブ伝統音楽への回帰が始まって、カーヌーン、ウード、ブズーキといった民族楽器を使用するようになりました」。ここで言われているように、アラブの有名な詩人たちの作品に曲をつけて歌うということと、アラブ音楽への回帰とが同時に起きたわけです。リーダーのサイードの話によればアラブ音楽の方向にずっとシフトしていった時期というのが五年ほど続いたという事で、おそらく八四年のアルバム「火山の噴煙」がこの時期のサーブリーンの指向を伝えているのだと思います(もちろんそこにはすでにアラブ音楽の枠からはみ出すサーブリーンの新しい感性がみなぎっているのですが。)

 この「火山の噴煙」には八曲が納められていて、そのうちの六曲が、カメリアのいうところの「アラブの有名な詩人達」の作品であり、残りの二曲がフセイン・バルグーティという「有名ではない」詩人の作品です。ところが次のアルバム、八八年の「預言者の死」ではスブヒー・ズベイディという詩人の作品が四つにフセイン・バルグーティのが三つ、「有名な詩人たち」の作品は一つも入っていません。この「預言者の死」は、「アラブの伝統音楽と世界を見据えた新しい音楽の融合・創造」というサーブリーンのビジョンがはっきり示された一枚であるわけで、「火山」と「預言者」とで詩の提供者の面子ががらりと変わっているという事は、こうしたサーブリーンの音楽的な変化と歩調が合っているわけです。

 それではなぜ「預言者の死」ではアラブの有名な詩人達は姿を消したのでしょうか。このアラブの詩人達とはマフムード・ダルウィーシュ、サミーフ・カーシム、アブドゥッラティーフ・アクルといった、七〇年代に注目を集めだしたパレスチナ人の、しかもそれまであまり光をあてられることのなかった占領地およびイスラエル国内で生まれ育った若いパレスチナ人の詩人達なのでした。サーブリーンはこのような非常に高い芸術性を持ち、世界的に知られていて、しかもパレスチナ人の間で人気がある詩人達の作品に曲をつけるところから出発した。先ほど言ったように、このような詩と音楽の関係はけっしてめずらしいものではない。むしろ、伝統的なありかたをサーブリーンが継承したといえ、ロックやジャズファンの彼らがアラブの伝統音楽に回帰していったという流れと合致しているわけです。

 ところが彼らは次第に自分たちの音楽の方向性に再び懐疑を抱くようになりました。ここらへんの事情についてはサイードがインタビューでこのようにいっています。「それからまた疑問が起こるようになりました。自分たちはアラブだけじゃなく世界へ向けた音楽を表したい、と。その時にアラブの伝統音楽だけでは通用しない。アラブの音楽というのはアラブの言葉、西洋の古典音楽は西洋の言葉。ならば自分たちは、西洋のものと自分たちの古典的なものを統合して、世界に通用する新しい音楽、新しい言葉を生み出したいと思うようになりました」。こうして生まれたのが「預言者の死」というアルバムなわけです。そしてこのアルバムではダルウィーシュのような著名な詩人は姿を消して、そのかわりフセイン・バルグーティとスブヒー・ズベイディという詩人達の作品が用いられるようになった。フセインは私も会ったことがあって、スブヒーは私はどんな人か知らないんですけれども、おそらくフセイン同様、占領地に育った若い世代の詩人だと思います。彼らとダルウィーシュなどの有名な詩人達との最も大きな違いというのは、彼らが話し言葉で詩を書いているという点にあります。

 アラビア語は書き言葉と話し言葉の間の違いがはっきりしている言語です。今私は書き言葉といいましたが、それは単に本や新聞や手紙などで使われるだけのいわゆる文語ではありません。それはテレビニュースや政治家の演説、会議の場などでも使われる、いわば公式のアラビア語といえるもので、東南アジアからアフリカまで、イスラム教徒の多い地域やいわゆるアラブ世界と呼ばれる地域で、国境を越えて通用する標準アラビア語であります。それに対して、普通の人々が、日々生活の中で使っている話し言葉というのが存在する。それはたしかにアラビア語ではあるのだけれども、発音がなまったり、文法が簡略化されたりしていて、しかもアラビア語を話す人々が暮らす地域はどんどん広がっていきましたから、地域によって微妙な違いが生じてきたわけです。つまり方言ですね。こんなわけで、今ではたとえばイラク人とモロッコ人が出会ったとする。どちらもアラビア語を話す国民ですが、彼らが普段家族や友達と会話している言葉で話しても、お互いなんとなくしかわからない。同じアラビア語ですからだいたいは理解できるけれども、分からないことも多い。しかし書き言葉、公式のアラビア語で会話すれば完全に理解し合える。ところがこの公式のアラビア語を使いこなすには、きちんとした教育を受けている必要がある。それだけ日常語とかけ離れているわけです。

 こんなわけですから、通常アラブ世界では文学作品は公式のアラビア語、文語で書かれます。「火山の噴煙」でサーブリーンが歌っていた詩人達の作品も当然そうです。それに対して「預言者の死」は全曲話し言葉のアラビア語、いいかえればパレスチナの方言、それもエルサレム方言で書かれた詩、つまりとてもローカルな言葉で書かれた詩が用いられている。これはさきほどのサイードのインタビューにあった「世界に通じる新しい音楽、新しい言葉を生み出したい」という意図とどう関わってくるのでしょうか。


 「火山の噴煙」で歌われていた詩人達、マフムード・ダルウィーシュやサミーフ・カーシムなどのパレスチナ詩人達は、一九四〇年前後の生まれで、物心ついた頃にはすでにイスラエルの占領下にあった、いわば喪失の第一世代です。彼らの世代は必然的に、自分たちは一体何者なのかというアイデンティティの問題にぶち当たらずにはいられなかった。そして一九六七年の敗北とパレスチナ解放闘争の始まりを二〇代の後半という年頃に経験した彼らは、闘争の主体としてのパレスチナ人という民族アイデンティティが形成されていく、まさにそういった時代の申し子なわけです。そのため彼らの詩の登場人物は「総体としてのパレスチナ人」だといえます。詩の中で歌われる「私」や「彼」は単なる一人の人間ではなく、パレスチナ人全体の悲劇的な運命を背負った巨大な「私」であり「彼」である。一人一人がパレスチナ問題を体現する存在であるわけです(こうした巨大な「我」への志向はアラブ詩一般の問題のようです)。

 それに対してサーブリーンが表現したいと思った「私」というのは、飲んだり食べたり笑ったり恐れたり失望したりする「私」、パレスチナを体現するような抽象的で巨大な「私」ではなくて、現に「今」「ここ」に生きている一人の人間だったわけです。そして現在進行形で今生きている人間の感情を表現するためには、新しい表現が必要だという考えに彼らは至るようになります。そしてフセインやスブヒーもまた同じ時期に同じような考えを持っていた、いや多分彼らだけじゃなくて、多くの若い表現者達が同じような試行錯誤をしていたんだと思います。それはまさにインティファーダ世代の芸術運動と言えるのではないでしょうか。インティファーダは単なる抵抗運動ではなくて、占領下のパレスチナ人たちの自己発見と自己変革の試みであると私は認識しています。そしてサーブリーンやフセインが自己を見つめなおして、それを表現するための新しいスタイルを模索し始めたということそのものが、インティファーダの一環だと思えるのです。

 そしてフセインたちは新しい表現として自分たちの普段の話し言葉であるエルサレム方言で詩を書くことを選んだ。確かに話し言葉は普通に生きる人々の感情を率直に伝えるにはもっともふさわしい言葉です。しかしそれは、文語と違って抽象的な観念や奥深いメタファーなどを表現するには適していない。結局彼らは話し言葉で詩を書くことを選んだ時点で、「パレスチナ問題を体現する存在としての我々」とか「犠牲者であり、難民であり、戦士であるパレスチナ人」というオブセッションから解放されて、等身大の言葉で自分たちの生を語ることを選んだのだと思います。そしてサーブリーンはこのような詩人たちとの共同作業を通して音楽の方向性を定めていった。つまり、自分たちがパレスチナ人だから、アラブ人だからといって、必ずしも自分自身を表現するためにアラブ音楽の伝統に則らねばならないというわけではないんだ、パレスチナ人であると同時にロックやブルースやレゲエにシンパシーを感じる自分たちをそのまま表現することが大切なのだ、という想いが彼らの中で強くなっていったのだと思います。

 そしてまた話し言葉の詩を歌うようになったことは、スタイルの面でもサーブリーンの音楽に大いに影響したと思います。アラビア語の文語というのは長短の音節のコントラストがはっきりしていて、音のきつい子音が多く、詩の朗読や演説にはもってこいの重厚感のある言葉なのですが、その分仰々しく、リズムもかなり規定されてしまいます。その点話し言葉はより軽やかで、リズムも自由が利きますし、なによりも普段使い慣れている言葉だけに自然に歌えるはずです。文語のうたと話し言葉の歌を聴き比べてみると発声そのものが違っています。彼らは詩をみんなで朗読しながら曲をつけていくということなので、詩のスタイルは曲のスタイルに大きな影響を与えているのは確実でしょう。

 こうして誕生した「預言者の死」はパレスチナを歌うという重々しさから解放された言葉と、アラブ音楽の枠から解放された音とのコンビネーションという感じの自由で新鮮な作品に仕上がったわけで、そして今回の「ヒア・カム・ザ・ダブス」ではそのサーブリーンの音楽の更なる進化形を聴くことが出来るわけです。

 今回のアルバムは全曲フセイン・バルグーティが詩を書いています。前作「預言者の死」で詩の半分を担当していたスブヒーの作品は今回は取り上げられていません。このことは、今回のアルバムの色彩に大きく影響していると思います。スブヒーという詩人は、占領という状況を民衆の言葉で表現することの得意な詩人です。虐げられた民衆の最大の武器の一つは「笑うこと」です。パレスチナ人は権力者達を揶揄する小話や小唄を作るのが得意ですが、このような民衆のシニカルな笑いがスブヒーの詩を特徴づけています。それにたいしてバルグーティーはより叙情的といいますか、占領の状況の中で生きている人間の悲しみや不安や喪失感といった心情の部分を見つめるタイプの詩人だといえます。またもう一つの彼の特徴は民話や民間信仰の世界に関心を持っている点にあり、これまでのアルバムでもパレスチナに伝わる民話やアラブの英雄伝説などをモチーフにした作品を書いています。

 このような特徴を持つフセインが全曲に詩を提供していることによって、今回のアルバムは占領という状況にコミットするというスタイルからこれまでにもましてさらに遠ざかっている、単純にいってしまえばより政治的でなくなっているわけです。「パレスチナの音楽」と聞いて想像するような抵抗歌ではまったくない。そのため、これまでパレスチナの政治的な抵抗運動に共鳴してきた人たちにしてみると、物足りなさを感じる部分があるかも知れません。しかし私はむしろこのような方向性の中に、彼らの思想的な深みのようなものを感じるわけです。

 今回のアルバムで展開されているのは、「私は一体何者なのか」という問いであるように私には思えます。彼らはそこで「私はパレスチナ人だから抵抗歌を歌うんだ」とか「私はアラブ人だからアラブ音楽をやるんだ」とかいったような単純な答えでは満足していない。自分たちの内面を深く見つめて、そこに様々な音やことばを発見し、それを表現していく、そんな作業をしているように思えるのです。だからこのアルバムのなかで、たとえばレゲエ風の曲があるのは、ただ好きだからとかおもしろいからといってその形だけをまねして取り込んでいるんじゃない。彼らにとってレゲエはカリブからアフリカ、アフリカからアラブへという風に繋がっていて、それはジャマイカの音楽であるけれども、自分たちの音楽でもある、そんな風に考えているんだろうと思うんです。

 だけれどもたとえばレゲエやジャズとアラブ音楽との繋がりっていうのはそれはけっして客観的に検証できるようなものじゃない。それはあくまでも主観的なものです。レゲエを聴く、ジャズを聴く、またアラブの民謡を聴く、その時にその音に共鳴するものが自分の中にあって、そういう部分が集まって今現にある「私」をつくっている、そういう部分を発見して組み立てていく、それが今回のアルバムのコンセプトなんだと思うんです。

 フセインの詩も全く同じように、まるで自分自身をプリズムに当てて分光させる、そんな試みをしているような気がします。彼は自分の内面を深く見つめることによって、たくさんの自分を発見した。たとえば一曲目の「ジプシー」。ジプシーはアラブ世界ではガジャルとかヌールとか呼ばれる人間集団ですが、その実体はよく分からない点が多い。しかし周縁的な存在として、また歌舞音曲、占いなどに従事するどこかうさん臭い連中として見られているふしがあります。フセインはそのジプシーに自分自身を投影しているわけですが、それは疎外されたパレスチナ人としての哀しみを表現するだけでなく、既存の諸制度から逸脱していく軽やかで自由な自分をそこに発見したからでしょう(余談ですが、パレスチナ人映画監督、ミシェル・クレイフィの最新作でもジプシーの女の子が重要な役割を果たしています)。九曲目で歌われている「トルコの海賊」というアウトロー的存在についても同じことが言えると思います。また彼は占領下で不安を持てあましつつ生きる自分を発見し、それを「ラーマッラー1989」という傑作に結実させた。三曲目の「三〇の星」は三〇年の生涯を意味するそうで、まさしく三〇才を越えた彼が自分の生涯を振り返り、喪失感と共に絶望の果ての希望を見い出そうとした、そういう作品だと思いますが、この二曲は共に「石を投げる抵抗者」という仮面をはぎ取ったときに現れた彼のもう一つの顔なのではないでしょうか(それはライナーで彼が言っているようにもう一つの仮面なのかも知れませんが)。さらに今回のアルバムで興味深かったのは、宗教的なモチーフを扱った「ハディル」と「鳩が群れ、飛び来る」の二曲です。ハディルはオリエント世界に広く知られた聖なる存在で、イスラームの伝承ではアレクサンダー大王の従者だったと伝えられています。しかしそれ以外にも様々な伝説があり、古代メソポタミヤやケルトの伝説とも重なる部分があるようです。ハディルは龍退治の聖ジョージのことだという説もあり、この曲の英語タイトルが「聖ジョージ」になっていることからしても、フセインはキリスト教的なハディル伝説を念頭に置いているようです。また「鳩が…」では聖書の中のバプテスマのヨハネにかんする記述をとりこむことで、新しい世代の先駆けとなるべき自分が表現されています。しかし肝心なのは、これらのモチーフがキリスト教的だとか言うことではなくて(私が知る限りフセインはばりばりの左翼で、信仰あるキリスト教徒だとは思えない)、それがパレスチナに深く根付いた信仰であり、伝説であるということです。つまり、彼はパレスチナの民間信仰に素直に共鳴する自分、ヨハネやキリストやハディルが歩き回っていた、そういうパレスチナの地とかたく結ばれている自分を発見した。しかし同時にこうした信仰はパレスチナだけに止まらず、世界の様々な地域に広がっているものでもあるわけです。

 このように今回のアルバムの詩の世界はひじょうに多彩ですけれども、それは彼が日々使い慣れているエルサレム方言という等身大の言葉で自分自身を語ることによって、むしろある固定的な既存の「パレスチナ人」や「アラブ人」といった自己イメージを解体したところから生まれたものではないでしょうか。つまり彼は小さな自分を率直に、しかし深く見つめることによって、時や場所をこえて流れだし、広がり、共鳴する、そういう大きな自分を見いだそうとしている。

 このようにフセインは方言という等身大の言葉を用いて、今現にパレスチナの地に生きている自分自身を表現しようとしている。それはよりローカルな土着的な方向性をもっているといえます。しかしそれによって彼は単純な民族主義的な自己規定の枠組みを越え出ていくような自分を発見しようとしている。また、彼が生きているパレスチナ、しかもエルサレムという場所は、何千年の昔からさまざまな民族が行き交い、多様な文化的要素がからみあって形成されてきた場所であり、今も昔も世界中から巡礼客や観光客が集まる、つねに外に向かって開かれた国際的な都市であって、自分の奥底を見つめるとき、そこに西洋とか東洋とかいうような境界線に閉じこめられない多様な要素を容易に見いだすことの出来る、もともとそういう場所だと思うのです。こうして自分のルーツを深く究明していくことによって、むしろ世界に開かれた自分を発見する。それがフセインの目指していることで、今回のアルバムのライナーノーツでサーブリーンが表明している「新たなパレスチナ人、新たなアラブ人、新たな地中海人」を形成したいという願望もこういうことを言っているんだろうと私は考えています。

 こうしたフセインの方向性はマフムード・ダルウィーシュの最近の仕事と比べてみてみると興味深いものがあります。最近のインタビューの中でダルウィーシュは、新大陸征服によるネイティブ・アメリカンの文化の破壊や、グラナダの陥落以降イベリア半島で吹き荒れた宗教的な排他主義といった、歴史上のあらゆる暴力や追放をパレスチナと結びつけるような作品を書くことで、パレスチナを普遍的神話の域に高めたいというような願いを表明しています。ダルウィーシュが抽象性の高い言語を用いて、高次な神話的な世界を構築しようとしているとするならば、フセインが向かっているのはパレスチナという地と堅く結びついた民話の世界なのだといえるかもしれません。しかし、普遍性という点においていうならば、神話をめざす方向も、民話を目指す方向も、結局は同じ事なのかも知れません。


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