カールスプラッツのポプラの木(Die Pappel vom Karlsplatz)
ドイツ 作詞:Bertolt Brecht 作曲:Hanns Eisler
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竹田賢一(大正琴)、小山哲人(bass)、岩館洋(alto saxophone)、大熊亘(clarinet)、千野秀一(piano)、中尾勘二(drums)
ゲスト: 大友良英(turntable, chorus)、 松原幸子(chorus)、角田亜人(chorus)
text アドルノ、ベンヤミン、アイスラー
〜30年代の「引き裂かれた半身」をめぐって〜 (細見 和之)

 ハンス・アイスラーは、アーノルト・シェーンベルクの弟子たちのなかでもっとも若い世代の、代表的な作曲家である。……作品のさり気ない豊かな関連においても、また、モーツァルトに学んだ自由さにおいても、アイスラーは真価を発揮している。この自由さによってかれは、新しいものに繰り返し新しいものを結びつけ、しかも統一を生み出すことに成功している。……ここで技術的な形式分析を評者が試みたのはもっぱら、アイスラーのもつ天与の想像力を示さんがためだった。この才能こそは、かれの旋律を生 み出す力や和声の率直さ、楽器についての知識ほどには目につきやすいものでないとはいえ、もっともかれ独自なものであるかもしれないのだ。この二重奏曲はまずもって自分自らのために語るとともに、同時にそれは、師シェーンベルクのための証言ともなるだろう。シェーンベルクのところでこそ、アイスラーの作曲の厳格さが育ち、かれの戯れるような心地よい優美さと合致しうるようになったのである。

 これはアイスラーの作品第7番「ヴァイオリンとチェロのための二重奏」(1924年)に寄せられた、ウィーンの音楽誌『アンブルフ』に1925年に掲載された批評で、執筆者はテオドーア・ヴィーゼングルント・アドルノ。当時アドルノはまだ二十二、三歳の、「新進気鋭」とすら認知されていないような、駆け出しの作曲家であり批評家だった。『アンブルフ』にこの評が掲載される直前、アドルノはフッサールについての博士論文を仕上げ、ベルクのもとでかれ自身も作曲を学ぶためにウィーンへ移住したところだった。一方アドルノより五歳年長のアイスラーも、1919年から1923年までの四年間シェーンベルクの個人レッスンを受けたのち、師とのさまざまな確執をともないながら、独自な作風へと踏み出した矢先だった。この1925年を期にアイスラーとアドルノの屈折した交流がはじまる。

 アドルノとアイスラー。一見奇妙な取り合せかもしれない。ことあるごとにシェーンベルク、カフカ、ベケットの名のもとにモダニズムの牙城を守ろうとしたかの観のあるアドルノと、ブレヒトの「統一戦線の歌」の作曲者であり、何よりドイツ民主共和国(東ドイツ)の国歌の作曲者ともなるアイスラー。たしかにアドルノはアイスラーの「共同体的音楽」に今後は繰り返し不満を述べることになるし、一方アイスラーは、アドルノをはじめ「フランクフルト学派」のひとびとのうちに、労働者大衆と何のつながりももっていない、口先だけの観念インテリの典型を見ることになる。とはいえ、アドルノとアイスラーは、シェーンベルクを中心とした音楽家グループに集う一員として若き日に出会ったというだけではないのだ。かれらは、ともにアメリカ合州国へ亡命しているあいだに一冊の共著『映画のために作曲する』を著すことにもなるのである(もっとも、この著作の最初の英訳版での刊行に際しては、アドルノの名は削られていた。アドルノがアイスラーの政治的立場と結び付けられることを恐れたからである)。何と言っても、アドルノがこのような「共著」に手を染めるのは――「社会研究所」のメンバーとしての共同研究を除けば――、ホルクハイマーとのあの『啓蒙の弁証法』を措いてほかにはないのだ。

 アイスラーは当初から、シェーンベルクの芸術至上主義的な立場に、腹立ちに近い疑念をおぼえていた。シェーンベルクは音楽の社会的・歴史的な機能にあまりに無自覚である、と若いアイスラーには見えたのだ。かれの実の姉ルート・フィッシャーと兄のゲルハルトは、早くからドイツ共産党の戦闘的な党員として活動していた。アイスラーもまた、正式な党員とはならないまま、党の労働者組織と積極的に結びつき、合唱団の指揮や指導にあたっていた。共産主義者としてのかれの信念は、どのような局面においてもその生涯において基本的に揺るがなかったように思われる。だが同時にアイスラーは、そういう大衆的な組織との活動においても、シェーンベルクの音楽、無調音楽と十二音階の技法の切り開いた地平から決して撤退すまいともしていた。伝統的な労働運動歌につきまとう、情緒的な歌詞やありきたりのメロディは、かれにとって、まずもって「異化」されるべき、悪しきイデオロギー的要素にほかならなかった。ここから、二〇年代後期にベルリンではじめられる(ブレヒトとの共同作業を軸にした)、最新の音楽技法でもって労働者大衆と結びつくという、ほとんど未到の試みが企てられることになるのである。しかもかれは亡命期には、当時の合州国のニューディール政策を背景としてとはいえ、この志向をハリウッドという文化産業(映画産業)のただなかでも、貫こうとするのだ。このようなアイスラーとアドルノのあいだに伏流する、ある屈折した連関――。

 ここでぼくが是非とも想起しておきたいのは、アドルノが三〇年代にベンヤミンとの書簡のなかで交わしたあの重要な「論争」である。アドルノは二〇年代の終わりからベンヤミンの影響を色濃く受けてきた。以来アドルノは自らの哲学的企てをベンヤミンとの共同プログラムの実現とすら考えていた。だが三〇年代のベンヤミンは、ブレヒトとの共同生活をも挿みながら、マルクス主義への急速な接近を示す。たがいに亡命生活のなかでおぼえる隔靴掻痒の思いのなかで、二人のやり取りは、ベンヤミンのその都度の論考を軸に、多くの論点をめぐって展開されてゆき、やがては先鋭な対立をもはらむ。そこにほかならぬアイスラーの志向が影のように差しているのだ。

 ここではとくに、ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」にたいする応答として書かれたアドルノの書簡を見ておきたい。ベンヤミンはこのとりわけアクチュアルな論考で、複製技術による芸術からのアウラの消滅を語り、そこに芸術の新たな可能性を見ようとする。とりわけ映画は、大衆の芸術参加に新たな次元を導入したとされる。たんなるイデオロギー的な道具に堕している現状を批判しつつも、映画のもたらした知覚の変化(クローズアップや高速度撮影による知覚の深化と分析力の進展など)、大衆(観客)と作品の関係の質的な変化に、ベンヤミンは最大限の可能性を汲み取ろうとする。いわば、映画をはじめとする複製技術に支えられた芸術をプロレタリアートの武器とする戦略的方向に芸術史的な理論的根拠を与えること、それがここでのベンヤミンの果敢な試みである。その視点から、「芸術のための芸術」という自律的な芸術のスローガンは、むしろ未来派のマリネッティらの戦争賛美において頂点に達するものとして、激烈な批判の対象として論じられる。二〇年代、三〇年代を語る際に、これは欠くことのできないエッセイだろう。

 このベンヤミンの議論がアドルノにショッキングな打撃を与えたことはたしかだ。極端に言えば、遺著となった『美の理論』全体がこのベンヤミンの比較的短い論考への、膨大な応答と言えなくもないほどなのだ。アドルノは、大衆芸術がベンヤミンの言うほど可能性を秘めたものでないことには、たぶん決定的な確信を抱いていた。その点ではかれは、ベンヤミンの議論に容易にアンチテーゼを出せると考えていただろう。だが問題は、大衆文化にたいする楽天的とも言えるベンヤミンの論調を否定できても、その易々とした否定に見合った形でその対極に位置すべき自律的芸術について肯定的に語ることができるか、ということである。もちろんできないはずなのだ。なぜなら、そういう大衆文化を産み出す社会過程のなかに、自律的な(はずの)芸術も否応なく組み込まれているのだから。

 このベンヤミンの鋭い論考にたいする批判を綴った、1936年3月18日付けロンドン発のアドルノの書簡は、さしあたり大衆芸術を全面的に批判するかのアドルノの「真意」がどこにあるかを、きわめてクリアーに伝えている。この手紙の一節を読めば、しばしばアドルノに投げかけられてきた「批判」――ベンヤミンは大衆芸術にも理解を示すセンスをそなえていたが、アドルノは大衆文化を侮蔑しつつあくまでエリート主義的に高級文化を擁護しようとするばかりだった、という批判――が、少々的外れであることが理解できるだろう。これはごくごく基本的なポイントである。

 ベンヤミンは映画をはじめとする複製芸術に、たんなる大衆操作へと転じる契機とそれを乗り越える契機との、いわば併存を認めている。そしてそこから、その両義的な境域で新たな可能性を手探りしようとする。その意味で、ベンヤミンの大衆芸術にたいする態度は優れて「弁証法的」である。ではその弁証法的態度は、自律的な芸術作品にも適用されるべきではないのか。これがアドルノのベンヤミンにたいするここでの批判の骨子である。そして、そう批判するアドルノの背後にある理論図式は、この書簡のつぎの一節にきわめて明瞭に語られている。

 両者〔自律的な芸術と大衆的な芸術、ただしアドルノはここで、「もっとも上位のもの」と「もっとも下位のもの」と表現している〕は、ともに資本主義の傷跡を負っていま す。両者には変革の諸要素が内包されています(もちろん、それがシェーンベルクとアメリカ映画の中間物などというわけでは決してありません)。両者はまったき自由の引 き裂かれた半身であるのですが、この自由はやはり、両者を組み合わせて合成できるものでもないのです。一方のために他方を犠牲にするとすれば、それはロマン主義的でしょう。〔強調は引用者〕

 これはきわめて冷静かつ「まっとう」な指摘だろう、大衆芸術も自律的な芸術もともに資本主義のもとで傷ついた「引き裂かれた半身」であるというのは。だがここで注目しておきたいのは、そのコンテキストで「シェーンベルクとアメリカ映画の中間物」という例が、唐突に登場している点だ。講演と演奏旅行のためにアイスラーがはじめてアメリカを訪れるのは1935年の春であり、本格的に腰を落ち着けるのは、1938年の1月からである。もちろんこの一節のカッコのなかへの書き込みを、アイスラーの傾向へのたんなる軽い「あてこすり」と読めないことはない。だが、そうして片づけてしまうには、あまりにのがれがたい「真理」が語られてしまっている。第一アイスラー自身が、そのような危険――たんなるアマルガムに陥ってしまう危険――は重々承知していたはずだ(だからこそのちには、アドルノとの「共著」という作業も成立しえたのだ)。一方のために他方を犠牲にするのは「ロマン主義的」である。だからといって、両者を性急にくっつけるわけにはいかない。それではいったいどうすればいいのか。あるいは、三〇年代の十字路で発せられたこのような問いを携えて、その後アドルノはどうしたのか、アイスラーはどうしたのか、そしてベンヤミンは。

 伝記的な事実にかんしては争うべくもない。ベンヤミンは、イスラエルへ招こうとするショーレムとアメリカへの移住を促すアドルノらのはざまで危機的なヨーロッパ、パリに留まり続け、最後の瞬間にスペインからニューヨークへ向かおうとするのだが、そのはるか手前、フランスとスペインの国境ピレネーであの悲劇的な自殺を遂げる。一方アドルノとアイスラーは戦後それぞれ西ドイツと東ドイツに帰国し、それなりの「地位」を獲得する。アドルノがほとんど洪水のように理論的な著作を書き継いだのにたいして、アイスラーはあくまで音楽作品を――相変わらず「共同体的音楽」とアドルノに揶揄されるであろう作品を――コツコツと仕上げてゆく。一方かれらに先立ったベンヤミンが残したのは、「一九世紀の首都パリ」にかんする膨大な引用と断章からなる『パサージュ論』だった。『パーサージュ論』には「写真」と題された断章群が収められてはいるものの、そこからあの「複製技術時代の芸術」をさらに展開する方向は少なくとも表立っては見えてこない。むしろ『パサージュ論』それ自体が、大衆芸術であれ自律的な芸術であれ、既成の「芸術」という領域設定そのものを掘り崩すような視座で断章が書き継がれ、引用が収集されているという印象なのだ。

 アイスラーの最晩年(1962年)の作品「厳粛な歌」には、ヘルダーリンの悲歌「野への散歩」から取られた歌が収められている。ヘルダーリンの原作の翻案に近いこの歌の歌詞はつぎのように語りかける。

    行こう、広い野へ、友よ! きょうかがやく光は
    乏しく、狭くるしく天はぼくらを閉じこめるが。
    きょうは暗い、町の道も裏通りも眠りこみ、
    鉛の時代になったようだ。
    ぼくらの歌に力がないからだが、
    それでも歌は生に欠けてはならない。
    つばめだっていつも来る、
    夏にさきがけて、二、三羽は。
    大工が屋根のうえから宣告してくれますように、
    ぼくらはできるかぎり務めを果たした、と。
    (アルブレヒト・ベッツ『ハンス・アイスラー』浅野・野村訳、晶文社、212頁)
 ここで「ぼくらの歌」と歌われている箇所は、ヘルダーリンの原詩では「ぼくらの望んでいるもの」なのだが、いまの時点で振り返るならば、生涯をかけて新しい音楽と大衆の結合を具体的な作品行為のなかで追求し続けたアイスラーのほとんどドン・キホーテ的な積極性(肯定性)とアドルノの幾重にも屈折した否定性とが、ちょうどメダルの裏表のように一対をなしていたのではなかったか、という気がしてくる。そしてその背後には、ベンヤミンの『パサージュ論』の断章が、文字どおりどんな統覚をもまぬがれる形で――そう、もはや何の「半身」であったか判別しようもない形で――散乱している。


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