生きてるうちに見られなかった夢を(The Dream you Could't Dream in Your Lifetime)
梁性佑(Yang Seong Woo)、竹田賢一 | 訳詞:姜瞬
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竹田賢一(大正琴)、小山哲人(bass)、岩館洋(alto saxophone)、大熊亘(clarinet, vibraphone)、千野秀一(piano)、中尾勘二(drums, trombone)
text 忘却に抗する歌(姜 信子)

<これは“民衆歌謡”ではない>

 自称「左翼系ポップス・バンド」A−Musikが、70年代韓国の代表的抵抗詩人のひとりである梁性祐(ヤン・ソンウ)の詩「生きてるうちに見られなかった夢を」を日本語に訳し、曲をつけた。その話を聞いた時、私は、70年代以来反体制の旗の下、政治的メッセージソングとしての運動歌を生み出し歌ってきた韓国の民衆歌謡の世界と相響き合う動きを連想した。おそらく、A−Musik自体も、それを意識して「生きてるうちに見られなかった夢を」を楽曲化したのではないか。が、実際に耳にしたA−Musikの「生きてるうちに見られなかった夢を」は、私が聴き知っている韓国の民衆歌謡とはもっとも遠い場所から響いてくる音だった。
 これはいわゆる民衆歌謡とはまったくの別物だ。
 なぜか? A−Musikの音には、服従の匂いがなかったから。そのひとつひとつの音にも、それぞれの音がからみあった不協和音にも、声を合わせて歌うことを拒否するかのようなメロディ、歌の語り口にも。私がそこに聴き取ったのは、まつろわぬ者たちの歌であり、その歌は図らずも私が現在の韓国民衆歌謡に無意識のうちに抱いていた違和感をはっきりとした形であぶりだしたのだった。

<抵抗と定型>

 「生きてるうちに見られなかった夢を」を書いた詩人梁性祐は、韓国の人々が87年に民主化を勝ち取った後の国会議員選挙に88年に出馬し、当選している。彼の当選はこの一回限りだ。90年代韓国という目に見える敵のいない“戦後空間”において、彼は自分の居場所もビジョンも見失ってしまったかのように政界を迷走する。そして、97年の大統領選挙で金大中の対立候補陣営に与したことでその政治生命は尽き、民主化闘争の英雄だった過去の輝きも消えた。
 70年代、80年代と情熱的に抵抗詩を書きつづけ、闘いつづけてきた詩人梁性祐(ヤン・ソンウ)の88年以降のこの迷走は、“戦後韓国”における反体制運動、民衆歌謡の迷いのさまざまな形の中でも、最悪の部類に属するものかもしれない。
 梁性祐が軍事独裁下の韓国を厳冬になぞらえて描いた「冬共和国」によって高校教師の職を追われ、投獄されたのは1975年のことだった。同じ年、韓国政府は大衆文化の“浄化”にも乗り出している。ジーパンに長髪、片手には生ビールのジョッキ、片手にはギターを持ち、直接的な意味では必ずしも反体制的ともいえない、ただみずからの感性のおもむくままに音やリズムをかき鳴らしてフォークソングやロックを歌っていた多くの若者たちを、軍人出身の規律を重んじる大統領は社会のノイズとみなした。そして、厳しい検閲体制を布き、彼らから歌を奪った。おそらく、為政者は直感的に「定型」から逸脱していこうとする音やリズムに危険な匂いを嗅ぎ取っていたのだろう。
 歌を奪われた若者たちのなかのある者は、反体制運動に合流し検閲制度の外で抵抗の歌を歌う「民衆歌謡」の担い手となった。またある者は政治性とも商業性とも無縁の小さなライブ空間を活動の場として、みずからの感性に忠実なアーティスティックな歌を歌う道を選んだ。形は違えど地下に潜った前二者とは対照的に、検閲の枠の中で愛や恋を歌いあげる流行歌の世界=「大衆歌謡」に生きる場を見出した者たちもいた。これが1975年以降の韓国大衆音楽の実に大雑把な見取り図だ。
 民衆歌謡の世界では、多くの抵抗詩に曲がつけられ、運動歌として歌われた。梁性祐の数多くの抵抗詩、例えば「青き山が声をかぎりに歌っている」といった詩も、あるいはかの有名な金芝河の「焼けつく喉の渇きで」といった民主主義を熱烈に願う抵抗詩も運動歌となって広く歌われてきた。こうして70年代に運動の現場で生まれ育った民衆歌謡は、80年代半ばには「ノレ(うた)運動」という形で反体制運動のなかの大きな一角を占め、反体制のメッセージソングとしての理論と形式を備え、検閲制度と商業主義の枠の中にある大衆歌謡とは異なる独自の創作と生産と流通の回路を持つようになる。

 それは、一面、最も有効な形で闘いの歌を生産する合理的プロセスの形成過程であったと同時に、耐え切れず思わず口をついてでた個々の抵抗の歌が理念に則った定型の歌、組織の歌へと組み込まれていく過程であったと言えるかもしれない。
 民衆歌謡の絶頂期はソウルオリンピック前夜の87年。金大中氏の政界復帰、政治犯の釈放、大統領直接選挙制、言論の自由の約束、つまりは民主化宣言である「六・二九宣言」をついに軍事政権から引き出した六月抗争とともにやってくる。“軍事政権はこの危機を乗り越えてオリンピックを開催できるか?” そんな問いとともにソウルに注がれる世界の視線を味方に、反体制運動が大学や労働運動の外へと初めて大きく広がり、限られた「民衆」の運動から全国民的運動となった時、民衆歌謡もまたそれまでの枠を超えて広く多くの人々に歌われるにいたったのだった。

 当時、歌われた数多くの民衆歌謡の一つに、「曠野にて」という歌がある。
 引き裂かれた胸を抱き消えていったこの大地の血の涙がある
 抱きしめた二つの腕に噴き出す白い衣を染める血しぶきがある
 朝日のぼる東海から夕日沈む西海まで
 熱き南道から広大なる満州の平原まで
 われらどうして貧しくあろうか
 われらどうしてためらおうか
 ふたたび立ちあがるあの曠野にて握りしめた熱き土よ

 89年に民衆歌謡グループ「歌を探す人々」が、この「曠野にて」を収めたアルバムを、民衆歌謡としては初めて合法的に検閲を経て発売し、(「民衆歌謡」的言い回しでは商業圏に進出して)、70万枚のヒットを記録した。ちなみに、韓国の大衆歌謡において初のミリオンセラーが登場したのがその前年の88年のこと。それはピョン・ジンソプという名の若い男性歌手によるラブバラードだった。
 しかし、この70万枚という数字も89年の時点では、もう終わりかけている闘いの余韻に過ぎない。民主化への大きな一歩が踏み出され、オリンピックも無事やり遂げたところで気がついてみれば、そこは漢江の奇跡を達成した豊かな大衆社会だった。(87年の勝利を「民衆」の勝利と受け取ったのは、どうやら大きな勘違いだったらしい…)。ベルリンの壁が崩れ、東西冷戦構造も東側の自主的退場で消え失せ、「民衆」が親近感を寄せてきた北朝鮮の惨状も明らかになってくる。(「民衆」を支えていた大きな理念がみずから姿を消してゆく…)。いわば、民主化闘争の勝利という形で反体制運動の絶頂期を迎えた瞬間に、民衆歌謡はその足場は失ったのだった。
 ところが、困ったことに、民衆歌謡が反体制の闘いの中で練り上げていった「民衆歌謡」的定型は、その定型を生み出した時代が足早に過ぎ去ったというのに、まだそこに厳として存在している。しかも、気がつけば、独裁者たちによって形作られた逸脱もノイズも許さない強力な定型に抵抗の精神を掲げ立ち向かっていったはずの「抵抗の歌」が、より強固な定型という砦を築き、ノイズも逸脱も振り払うようになっていた。抵抗者たちが形作ったこの定型の内側では、いつのまにか「勝利のための服従」という暗黙のルールが生まれ、“抵抗の精神”は、思考も感情も行動も与えられた筋道どおりに動かしさえすればいい、余計なことは考えるなという“支配と服従の精神”にいつのまにか侵食されていた。外部との闘いのために内部における理念と秩序に絶対的に服する従順な抵抗者たちによって歌われる、調和ある美しいハーモニー。乱れのない力強いリズム。
 90年代韓国という“戦後空間”において、民衆歌謡はその定型のなかに閉じ込められ(あるいは閉じこもり)、みずからが唱えてきた概念や理念や観念に声を縛られ(あるいは縛り)、抵抗の精神を唱えながらも、何に抵抗すべきなのか、その対象をつかみかねている。一致団結の闘いのために、一糸乱れぬ隊列を作るために、同じリズムで美しく声を合わせてきたその余韻はなかなか消え去らない。その余韻の中で、民衆歌謡は、もはや有効とは思われない二大イデオロギーの対立の構図を背景に置いた<民衆歌謡−大衆歌謡>という構図の中で、商業主義とは妥協しない意識の高い者たちの批判精神に満ちた「抵抗の歌」、現実に対する批判にとどまらず代案を提示する歌であろうともがいているのだ。
 民衆歌謡のその過大とも言える自己認識には歌に託された社会革命の夢が宿っているのだが、90年代の“戦後韓国”大衆社会が民衆歌謡に与えているのは“自分たちとは無縁の少数の学生運動家や労働運動家たちの歌う特定のジャンルの歌”という冷淡な認識にすぎない。それに対して「大衆」は意識が低いから、目覚めていないから、というような「民衆」的解釈もありうる。だが、その共感なき自他の認識の大きなギャップから読み取るべきは、今や誰もが逃れようもなくそこに身を置く現代大衆社会において、「民衆」という特別区を作り、「民衆歌謡」という枠組みの中で、「抵抗の歌」を生産していくことの不毛さだろう。なにしろ今は、かつての独裁者・朴正煕でさえ、韓国の経済発展の礎を作った人物として郷愁とともに再評価される時代だ。かつての反体制運動の闘士・金大中が経済再建のために労働運動を厳しく押え込み、やはり経済再建のために労働運動のリーダーたちが政府の方針と足並みを揃える時代だ。政治(理念)の時代から経済(欲望)の時代へと移り変わった時、当然ながら、人間の行動に対する評価の尺度も大きく変わった。
 「抵抗の歌」民衆歌謡のこの迷いともがきと硬直は、切実な問いを私たちに差し出す。
 この“戦後空間”において、抵抗とはいったい何に対する抵抗なのか? 抵抗の歌とはいったいどんな歌なのか?
 思うに、目に見える敵のないこの“戦後空間”で、それでもあえて私たちが抗すべき敵を見つけ出そうそうとするならば、それは抵抗さえも呑み込み、抵抗者たちをも服従へと誘い込む「定型」、それをおいて他にはないのではないか。


<呟く歌>

 たとえば、たったひとつのことに思いを集中させる、他のことについては語らせない、口をつぐませ忘れさせる強い求心力を持った歌がある。シンプルで強く固い定型を備えるほどに、その求心力は増していくことを私たちは既に知っている。逆に、失われていた個の言葉を呼び戻し、さまざまなの「声」のざわめきを呼び出す歌もある。
 1992年、韓国では「…ラグヨ(…と言うんです)」という風変わりなタイトルの歌がヒットした。おそらく、この一曲で韓国の人々に長く記憶されることとなったカン・サネというロック歌手のデビュー曲だ。この歌をめぐって民衆歌謡の担い手たちは、「大衆歌謡」であるものの分断の悲劇と統一への願いを歌って「民衆歌謡」としても通用するもの云々と語ったものである。が、このような民衆歌謡的発想の否定、<民衆歌謡−大衆歌謡>という対立の構図の無化こそがこの歌のもたらしたものだった。
 カン・サネ自身の作詞作曲によるこの「…ラグヨ(…と言うんです)」は、彼が幼い頃から見てきた母の姿、母から聞いた亡き父の思い出を語っただけ、“父が、母が、「…」と言うんです”と語る、ただそれだけの歌だ。しかも、メロディは実にオーソドックスなフォークロック。ところが、この歌はじわりじわりと韓国社会に染みわたり、気がつけば息長く幅広い支持を受けるロングセラーとなっていた。
 彼がデビューした92年といえば、90年代韓国の大衆音楽を代表する「ソテジ・ワ・アイドゥル」がデビュ−した年であり、いわゆる新世代と呼ばれる若者たちの騒々しいヒップホップやテクノやレゲエが、自由で豊かな90年代韓国大衆社会を象徴する新しい音とリズムとして登場した年だった。
 踊る十代の若者たちの時代。そこに遅れてやってきた29才の新人が、実にオーソドックスで何の飾りもないフォークロックの文体で、愛の言葉でも恋の物語でもなく、母の記憶を呟くように静かに語りかけるように歌いだした。その歌声に踊る若者たちがその動きを止め、その言葉にじっと聞き入った。ロックなどに興味のなかった、それどころか、米帝国主義の音楽、悪しき資本主義の音としてロックを廃してきた民衆歌謡陣営もまた、この歌に耳を傾けた。さらにはロックが持つ抵抗の精神と大衆への訴求力を高く評価し、民衆歌謡へとその様式を取り込もうとする動きも見せ始めた。
 その現象の背景について、韓国のある大衆音楽評論家の次のように説明する。
 「これまでも大学街には統一と分断を歌う多くの歌がありましたが、それは明確に南北統一運動の観点から歌った組織の歌でした。が、カン・サネの「…ラグヨ」は、豊かな感受性で朝鮮戦争以降の世代に、分断の悲劇と統一の希望を自分の家族史を通じて語りかけたのです。これが巨大な理念によって発話する80年代と、具体的な個人の感受性によって発話する90年代の世代との分岐点を作り上げました」
 この評論家はさらにこうも言う。
 「カン・サネの音楽は、80年代の韓国アンダーグランドが90年代にどういう風に生き残るかをみせてくれた快挙です。大衆音楽の主流の世界でチョ−・ヨンピルが華々しい活躍をしていた80年代において、韓国のアンダーグランド音楽には大きく分けて二つの流れがありました。一つは、「東亜企画」という音楽事務所に属するフォ−ク、ロック、フュージョンに至る音楽勢力。彼らのもとにレコ−ドファンとコンサ−トファンたちは結集していました。その一方、大学街とか工場とかではアマチュアとして激烈な革命的イデオロギ−を込めた運動歌(民衆歌謡)が大衆を掌握していました」。
 ところが、この二つのアンダーグランドの流れが、新世代が音楽市場を席捲し、また東ヨ−ロッパの崩壊で二大イデオロギーの一方が自主退場していくや、ともに急激に勢いを失っていく。「その瞬間に出現したのがカン・サネだった」と、評論家は言う。カン・サネとは、「80年代に韓国のアンダーグランドが持っていた二つの要素、すなわち、「東亜企画」軍団が持っていた芸術指向的な態度、シンガ−ソング・ライタ−としての独自の音楽世界と、大学街の運動歌が持っていた進歩的な要素を弁証法的に統合した人物」なのだと。
 なるほど、そうなのかもしれない。だが、その言葉をカン・サネ本人に聞かせれば、きっと彼は首を横に振ってこう答えるだろう。「そんな大袈裟なことじゃない。そもそも俺は80年代にはどこにもいなかったんだし」。
 そう、彼は芸術志向の音楽世界にも、進歩的な運動歌流れる大学街にもいなかった。一般社会にすら身を置いていなかった。
 釜山で育った70年代は、家と教会と学校しか知らず、朴大統領は世界で最も偉大な人物だと信じる優等生だった。80年代初めに大学入学のためにソウルへと上京し、目にしたデモと催涙ガスの匂いに満ちた大学街の光景を、彼はどう受け取ればいいのか分からなかったという。自分が今まで信じて生きてきた世界が揺らぎだし、大学にも社会にも身の置きようがなくなった末のドロップアウト。日々漂うにして生きて、気が向けばギターを手に歌を歌い…。そうやって理念にも現実にも居場所を持たないはみ出し者の暮らしをするうちに、80年代末に友人のいる日本にふらりと行き、そこで検閲の厳しい韓国では聴くこともできなかった外国歌手たちの音楽を、初めて浴びるほど聴いた。(なにしろ韓国ではビートルズの楽曲でさえ検閲にかかるものが多々あった)。そして、ブルースとロックにはまった。「世の中には“正しいこと”を言う人々は沢山いるが、その誰も自分の心を動かし、目覚めさせ、行動を起こさせはしなかった、それができたのはこの音楽だけだった」と思いいたった時、初めて自分も歌を作ろうと思った。その時に、想い起こされたのが心配させつづけた母親のことだった。幼い頃から見続けてきて、目に焼き付いた母親の姿、耳に焼きついた母親の声にならない呟きだった。

 初めての自作曲「…ラグヨ(…と言うんです)」は、十年近い放浪生活の末に日本という異郷で、母親の呟きを想起することで生まれた。それは、芸術志向の音楽からも運動歌からも遠く離れた世界で、歌うことに目覚めた放蕩息子が心配ばかりさせた母に贈るために作った歌だった。
 彼は80年代にはどこにもいなかったし、それゆえに80年代韓国の定型の何にも収まることなく、定型を知ることもなかった。ただ自分の内側からこぼれで出る言葉を歌にかえ、その歌を携えて90年代韓国に彼は姿を現わしたのだった。

 豆満江 青い流れに艪を漕ぐ船頭を見ることはできなかったけど/その歌だけは知りすぎるほどよく知っているのは僕のおとうさんのレパートリー/そのなかでも十八番だから/故郷のことが思い出されると焼酎がなくてはいけないと言い/涙で夜を明かした僕のお父さんはこう言うんです/「死ぬ前にただ一度きりでも行ければいいのに」と言うんです

 雪を吹き上げる風の冷たい興南埠頭に行くことはできなかったけど/その歌だけは知りすぎるほどよく知っているのは僕のお母さんのレパートリー/そのなかでも十八番だから/残された人生、一体どれほど残っているのかと言いながら/涙で夜を明かした僕のお母さんがこう言うんです/「死ぬ前にただ一度きりでも行ければいいのに」と言うんです

 一番、二番ともに、現在の北朝鮮を舞台にした植民地時代の流行歌の歌詞の引用から始まる。その流行歌はカン・サネの母親が実際に今も涙をこぼしつつ歌う歌、植民地時代に青春期を送り、朝鮮戦争で最初の夫と現在の北朝鮮の興南で生き別れになった彼女のかけがえのない記憶とともにある歌だ。
 母親の呟き、その抑えがたく洩れ出る呟きを傍らで聞いて育った息子の呟き。そう、それは思わず出てきてしまった呟きだった。それは大きな声ばかりが響き渡り、呟きなどかき消されてきた韓国にあって、久々に耳にする呟きの声だった。

 ところで、ことさらにカン・サネについて語ったのは、カン・サネというロックシンガーを特別な存在として描こうとしてのことではない。ロックというジャンルで言うなら、カン・サネ以前にも以降にも当然のことながら、定型破りの音や言葉を世の中に投げつけてきた若者たちは数多い。1975年の大衆文化浄化により、長く沈黙を強いられることとなったロックの大御所シン・ジュンヒョン。あるいは1977年に韓国の大衆音楽シーンに突如として出現し、破格のロックを生み出し韓国の若者の心を捉えたサヌリム。(私もこのバンドは大好きだ)。その1990年代における直系の後継者ともいうべきファンシネバンド(私の知るかぎり、前代未聞のノイズメーカー)や、数多くのインディーズのロックバンド。その、ある意味ロックの伝統に忠実な叫びや唸り、力ある者に対する揶揄や諷刺、時には過激ささえ伴うパフォーマンス、強い逸脱への志向、異議申立ての身振りは、体制にも反体制にも嫌われながらも、韓国でロックが音をかき鳴らしはじめた60年代より一貫してあったものだ。
 そのなかにあって、カン・サネという存在自体は特に異彩を放つものではない。「…ラグヨ」以降の、意識あるロックシンガーという世評を自意識のなかに取り込んでしまった彼の力強い異議申立ての歌の数々は、アナクロなほどにいわゆるロックの王道を行くものでさえある。異彩を放ったのは、1992年という時点において、無意識のうちに彼から思わずこぼれ出た呟き。耳慣れた力強い異議申立ての声とはおよそかけ離れた「呟き」という静かな語り口と、そこにに秘められていた思いがけない力だ。
 「…ラグヨ(…と言うんです)」という呟きは図らずも、大きな理念が急速に力を失いはじめた“戦後韓国”において、長きにわたり大きな理念に基づく定型によって封印され、誰もいないところでひとり呟くしかなった個々の生の記憶を外に向かって開く「声」となったのだった。


<開かれる記憶>

 1999年夏、私はカン・サネの「…ラグヨ」の「…」の部分の語り手である母親に会って、彼女自身の開封された記憶の物語を聴いた。
結婚して朝鮮南部から朝鮮北部の興南に行ったこと。夫は当時の知識エリートで、興南では「野口遵さんの会社である」窒素火薬会社の支配人をしていたこと。(野口遵が率いていた日本窒素といえば、当時の日本の新興財閥で、朝鮮半島では国策に沿う形で興南に大化学コンビナートを建設していた。その火薬会社なのだから、当然、国策の軍需工業だ)。それゆえ、解放後の北朝鮮で夫の地位がどんどん下がっていったこと。朝鮮戦争が勃発すると夫は連行され、自分は船に乗って南へと避難し、それ以来生き別れたままになっていること。そんなことが私の前で呟かれた。
 「…ラグヨ」のなかのあの歌を歌ってもらえませんかとお願いすると、「雪を吹き上げる風の冷たい興南埠頭…」と歌いはじめ、一番が終わったところで歌声が不意に途切れた。歌い終わったのではない。よみがえる記憶で喉が塞がれたのだ。彼女は涙をぬぐい、息を整えると、二番を歌い出した。
 歌は大好きなんですと、かつて女学校時代に好きでみんなで歌ったという歌の数々も思い出すままに次々に歌ってみせてくれた。
「逢いたさ見たさに怖さを忘れ 暗い夜道をただ一人/逢いにきたのになぜ出てこない 僕の呼ぶ声忘れたか/あなたの呼ぶ声忘れはせぬが 出るに出られぬ籠の鳥/籠の鳥でも知恵ある鳥は 人目忍んで逢いに来る/人目忍べば世間の人に 怪し女と指ささる…」
 「籠の鳥」だ。大正末期に日本で爆発的に流行したこの歌は、1927年に植民地朝鮮でも朝鮮語版レコードが出ている。その歌を彼女は韓国語でではなく、紙に書いて友達みんなと一緒に覚えたのですよと、十三番までを日本語で歌いきった。
 「雨よ ふれふれ/なやみを ながすまで/どうせ涙に ぬれつつ/夜ごと なげく身は/ああ かえり来ぬ こころの青空/すすりなく コリエパムピヨ(夜の雨よ)」
これは、淡谷のり子が1938年に歌った「雨のブルース」。日本語の歌詞に植民地で歌われた韓国語詞がヒョッと交じりこんでくる。
「春高楼の花の宴 めぐる杯…」
荒城の月。この歌には韓国語の歌詞もあるの、と韓国語版も歌う。扇子を持ってお遊戯会で踊ったのよと、実際に歌い踊ってみせる。こんな歌は仲のいい友達が集まった時だけ歌うもので、人前で歌いはしないのと言いつつ、「いざ征け つわもの 日本男児」と日本軍歌「出征兵士を送る歌」をくちずさむ。南京に兵隊さん達が行くとかで千人針をしたの、あの頃は楽しかった…、そんな言葉も思わずこぼれ出る。
 息子の無造作に束ねた長髪に李氏朝鮮時代の男たちの伝統的髪型を重ね合わせ、「朝鮮男児」の姿を息子に見出し、好ましく思う。そんな民族意識を持つ彼女の口から、植民地の時間と空間を共有した友人たちとの間だけの秘め事としてきた記憶が、歌とともに呟きとなって洩れでる。この呟きに私は、彼女の生の記憶は三十八度線で南北に分断されているだけでなく、1945年を境にして国境線で切断されていることにあらためて気づかされるのだ。

<忘却に抗する歌>

 近代日本で形作られ植民地へと渡っていった「歌」と、そこに盛り込まれた植民地の生の記憶。「歌」が記憶の器となる以上、そして、その記憶のなかに解放後に生まれた国家が求心力を形作っていくうえで聴きいれることのできないノイズが含まれている以上、「歌」はノイズとしての記憶とともに、その記憶の持ち主たち個々の胸のうちに封印されるしかない。その前提の上に、韓国のあるべき歌の定型というものは形作られてきた。植民地時代の流行歌のSP盤が現在の韓国で次々復刻されても、そのなかに当時盛んに歌われたはずの日本語歌謡もその朝鮮語版もけっして入っていないことにも、韓国における日本大衆歌謡禁止(韓国建国51周年目の1999年にようやく開放)にも、植民地時代の記憶に紛れ込んでいるノイズの消去という強い意図が秘められていることをここであらためて想い起こしたい。
 さらに言うなら、韓国において体制、反体制を問わず、歌に強く働いてきた定型へと押しやる力は、実は、正統なる民族の記憶の再構成−定型化に向けた強い意志に根差したものであったこと。そして、体制−反体制の闘いとは、誰が民族の記憶の正統なる構成者となるべきかということをめぐる闘いでもあったということにも、そろそろきちんと気づくべきなのだと思う。
 たとえ闘いの時代は過ぎても、また、韓国という特定の場所に限らず、どこであろうと、いつの時代であろうと、そこに変わることなく何らかの求心力があるかぎり、“私”の生の記憶は常に知らず知らずのうちに“私”ではない何者かによる定型の枠の中に収められ、ノイズとして定型からはじかれる記憶は声を失い、忘却の淵へと沈められてゆく。耳触りのいい「定型の歌」に包み込まれてしまえば、他人の人生のような自分の人生をそうと知ることもなく幸福に生きることさえできる。そのことに気づいた時、その時こそ、闘いの喧騒の中では見失われていた抵抗の本来の意味を私たちはつかみ取ることができるだろう。
 こうして、A−Musikの音がかきたてた民衆歌謡への違和感に触発されて発せられた抵抗と抵抗の歌をめぐる問いは、ようやくひとつの答えに辿り着いた。
 抵抗。それは「定型」の中で強いられた忘却に抗する意志であり、本来のノイズに満ちた生の記憶の想起であり、あらかじめ失われていた生の無数の可能性を取り戻そうとする姿勢だ。そして、抵抗の歌とは、革命歌、運動歌、民衆歌謡、大衆歌謡、ロック…というふうに名付けられ、特定のジャンルや特定の言葉、特定の身振り、特定の語り口に囲い込まれた歌ではなく、ノイズに満ちた生の中から発せられる忘却に抗する「声」そのものとして、定型に堅くかたどられた記憶を揺さぶり、撹乱しつつ、私たちの前に立ち現われてくるすべての歌をさすものなのだ。


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