歩きつかれて(Weary from the long Walk)
トルコ民謡
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竹田賢一(大正琴)、小山哲人(bass)、岩館洋(alto saxophone)、大熊亘(clarinet)、千野秀一(piano)、中尾勘二(drums)
ゲスト:伊藤妙子(vocal)、春日博文(percussion)
text トルコのナショナリズム (佐原 徹哉)

 1995年3月、イスタンブルやアンカラといったトルコの大都市は、時ならぬ騒擾に揺れ動いた。ことの発端は、イスタンブルで発生したテロ事件であった。イスラム原理主義者と見られる男が、アレーヴィー地区の喫茶店で銃を乱射し、店にいた数名の客が死傷するという、この忌まわしい事件はすぐさまイスタンブルとアンカラのアレーヴィーの間に反響を広げ、事件に抗議する群衆が路上にあふれ出した。規制に出動した警官の一部が、群衆に向けて発砲したことにも刺激されて、事態は暴動に発展するまでにもなったのである。この事件には、複雑な背景が絡んでいる。アレーヴィーとは、ムハンマドの娘婿アリーとその子孫のみがイスラム・ウンマを指導する正統なるハリファであると信ずる宗派、つまり、シーア派ムスリムに属する人々である。スンニー派が多数を占めるトルコ共和国では、アレーヴィーは少数派として、長らく不遇をかこってきた。かれらは社会的にも下層に位置し、低賃金労働者の階層に属するものが多いといわれる。それゆえに、トルコ国内の社会主義勢力、とりわけ、マルクス主義的潮流に属する政治勢力の伝統的な支持基盤を形成してきたのでもあった。今回の事件は、近年、目に見えて勢力を拡大してきたイスラム原理主義者が、アレーヴィー地区を社会主義者の巣窟と決めつけ、その挑発を狙ったプロパガンダ行為と見ることができよう。

 しかし、より歴史的に見ると、この事件は、トルコ政府の一連のクルド人迫害政策とともに、トルコという国家の内部がよりコミュナルに分節化している状況の反映と捉えることができる。クルド人の問題をコミュナルと表現するのは語弊があるが、状況は、一つの国家を形成してきた「民族」が、その内部の、より些末な差異にミリタントな視線を向けるようになり、エスニシティー内部のサブ・コミュニティー同士が互いに隔離してゆくプロセスをたどっており、コミュナルな対立と表現するのがふさわしい。

 今日の「トルコ人」は、言語的には日本語と同じく膠着語に属するチュルク諸語の一つを用いている。チュルク諸語を話す人々の集団は、古代から中世にかけて中央アジアから西に移動し、東南ヨーロッパにまでその居住範囲を広げてきた。西方に移動するに連れて一部はイスラム文化圏と接触し、イスラム化した。小アジア半島に移住したトルコ系の人々は、キリスト教徒と戦ってイスラム世界を防衛拡大する最前線の戦士となり、その集団の頭目はガーズィー(勇士)を称するようになった。十四世紀に急速に勃興したオスマン朝も、その前身はこうしたガーズィー集団にあった。オスマン朝はビザンティン帝国を滅ぼし、東地中海から黒海に広がる広大なギリシャ人世界をその版図に収め、史上最後の大イスラム帝国に発展した。しばしば誤解されているが、オスマン帝国はトルコ人の「国家」ではなかった。トルコ語を母語とする人々は帝国を構成する人々のほんの一部を占めるにすぎず、その多くは農民や牧畜民であった。シリア以南のアラブ圏では中央から派遣される行政官が、名目的に赴任したが、現地の事柄のほとんどは土着のアラブ系の人々に任されていた。帝国の支配階層は、もちろんムスリムではあるが、アラブ系やイラン系、さらにはスラヴ系やギリシャ系の出自をもつ人々も加わっていた。支配者たちはイスラム文明を築いてきた二つの言語であるアラビア語とペルシャ語を身につけ、さらにこの二つの言語をトルコ語をベースに融合させたオスマン語を作り出し、これが国家の公用語となった。オスマン語を身につけるためにはアラビア語とペルシャ語の相当程度の知識が要求され、農民にすぎない一般のトルコ系の人々は、この国家の公用語を完全に理解しえたはずはなかった。

 また、初期には帝国の過半数を構成していたキリスト教徒は、理論的にはすべて非支配階層に属していたが、イスラム国家の伝統をうけついだズィンミー制度のおかげでキリスト教徒も独自の支配階層を作っていた。同じことはユダヤ教徒についてもいえる。キリスト教徒やユダヤ教徒は、商業や金融の分野でその能力を発揮し、帝国の経済生活を支配した。つまり、オスマン帝国は「トルコ人」が他の民族を支配する征服国家ではなく、むしろ諸「民族」によって構成される帝国であり、支配階層の間には相対的に均質な意識が存在したが、それすらエリートとしての共有意識にすぎず、エスニシティーに基づいてはおらず、今日的なネイションの意識とはまったくことなる性格のものであった。

 18世紀以降、帝国の衰退が顕著となり、支配下のいくつもの地域が独立するにつれて帝国のエリートたちにも徐々に変化が現われたが、独立を目指す人々がいちはやくヨーロッパの民族主義思想を受容し、自己の集団をネイションへと変貌させていったのに比較すると、エリートの意識の変化は遅々たるものであった。帝国の支配エリートが、オスマン帝国という国家のエリートとしての意識を完全にすてさり、「トルコ人」としてのナショナルな意識を持つにいたるのは第一次世界戦争前後のことであった。もちろん、トルコ・ナショナリズムの先駆者といえる人々はそれ以前から活動していたが、「トルコ人」たるイデオロギーが結晶化するのは第一次世界戦争を契機としていた。

 つまり、トルコ・ナショナリズムとはオスマン帝国の枠組みの中に最終的に取り残された人々のうちで支配的な集団の共通要素を恣意的に体系化した思想なのである。それゆえに、高度に修飾的で難解なオスマン語は廃止され、アラビア語やペルシャ語の要素を意図的に廃棄しつつ、チュルク語的な語源を有する新造語彙が導入されたトルコ語が生みだされたのであり、世俗化政策がとられる一方でスンニー派イスラムがトルコ的なものとして保護されることになったのであった。トルコ民族主義の誕生はこうしたネガティヴな差異化の帰結である。 しかし、いったん方向性が定まると、すべてのナショナリズムは過度の均質化を希求する。ナショナリズムは産業化社会の適合的なイデオロギーであるからである。トルコ・ナショナリズムの場合も例外ではない。そして、トルコにあっては最もドラスティックにそれが推進された。

 その要因の一つとして看過できないのが、1923年に調印されたローザンヌ条約によってギリシャとの住民交換が行われたことである。ギリシャとトルコはこの条約に基づいて双方の領土内にいる非自国民を交換することを取り決め、こうして、トルコ領内のギリシャ人はギリシャに、ギリシャ国内のトルコ人はトルコへと移住させられることになった。例外的に、ギリシャ領の西トラキアのトルコ人とトルコ領のイスタンブルのギリシャ人はそのまま居住することが認められた。こうした野蛮な措置が、わずか七〇年前に行われたことじたいが驚くべきであるが、より、驚愕すべき事実は、交換の際にギリシャ人とトルコ人を区分する指標が単に宗教であったことである。つまり、キリスト教徒はギリシャ人、イスラム教徒はトルコ人という指標によってすべての人々が機械的に区分けされたのであった。

 住民交換という事件は、新国家の成立にともなって非自国民を強制的に追放するという、一見すると近代ナショナリズム特有の出来事と見えるが、実際には、はるか昔からオスマン帝国で用いられてきた戦後処理の手法の延長であった。オスマン帝国では領土を拡大する度に、従来の領土内のムスリムを集団で新征服地に入植させるスルギュンという制度があったが、この手法は領土が縮小する際にも逆に用いられた。17世紀末にハンガリーを喪失した際にはハンガリーにいたムスリムが強制的にボスニアなどに移住させられたし、一八世紀にオーストリアやロシアとの戦争の度に領土変更の対象となった地域のムスリムの移住が講和条約に盛り込まれた。この手法は帝国内部の所与の民族が独立する際にも転用された。たとえば、スルタンは1832年にセルビア公にたいしてセルビア公国内の農村部に居住するムスリムを強制的にオスマン領に移住させることを約束した。1878年にベルリン条約が締結された後にも、オスマン政府はブルガリアにたいして、ブルガリア国内のムスリムと東ルメリのキリスト教徒を交換することを提案してもいる。後にアルメニア人の大虐殺と呼ばれることになった事件も同様の思考法の延長にある。つまり、住民交換という出来事は、民族主義国家の完成を意味するわけではなく、その出発点にすぎなかった。

 そして、トルコ・ナショナリズムの排外性は、他のナショナリズムと同様に強まっていった。その矛先は、まず、キリスト教徒、とりわけ、ギリシャ人に向けられた。キプロス独立運動が高揚した1957年八月、一部の政府関係者の煽動によってイスタンブルで反ギリシャ暴動が勃発し、ギリシャ人の家屋、商店、教会が放火や略奪にあった。これ以後、イスタンブルのギリシャ人口は急速に減少し、現在では数千人規模にまで衰退している。これによって、トルコ国内の「異質な」要素は格段に減少し、イスラム的均一性が高まったのである。そして、均質化を希求する方向性は国内の同じイスラム教徒へと向けられる素地ができ上がったのである。 ナショナリズムが均質化を希求するという現象は、ナショナリズムが本来、現実の基盤を持たない架空のイデオロギーであるという性格自体によって説明することができる。つまり、妄念にすぎない思想を根付かせるには現実自体を幻想にあわせて変革すればよいからである。したがって、ナショナリズムはその犠牲となる少数者のみならず、信奉者にも多大な犠牲を強いるのである。この点でもトルコは示唆的な経験を提供してくれる。

 トルコ・ナショナリズムの虚構性は、次のような逸話に端的に見ることができる。マスター・プランを作ったムスタファ・ケマルは、一九二八年に、その協力者の一人、アフェト・イナンがある本の中で、トルコ民族は黄色人種に属しているゆえに下等な民族であるという主張を発見したとの報告を受けて、驚愕した。これ以後、彼はトルコ民族の歴史の基本テーゼを模索し、一九三二年のトルコ歴史学会第一回大会で確立された。その骨子は、1)トルコ民族の歴史はオスマン帝国のそれにとどまらず、太古にさかのぼるものであり、トルコ民族こそが文明を他の民族に伝えた功労者である。2)トルコ人は黄色人種でなく、白色人種であり、トルコ人は最古の文明をうみだした人々の末裔である。3)トルコ民族は中央アジアに起源を発し、その移住した先々、すなわち、イラン、アナトリア、エジプト、エーゲ海沿岸の文明の創始者たちも中央アジアに起源を発している。というものであった。こうした極度に誇張されたエスノ・セントリズムは現在にも引き継がれて、前トルコ首相トゥルグト・オザルはその著書『ヨーロッパの中のトルコ』の中で、タレース、アナクシマンドロス、ピタゴラス、クセノフォントといった哲学や歴史、地理学などの始祖はいずれもトルコ人であったと主張している。トルコの世俗主義、ケマリズムの内部にはこうした過度の西洋信仰が埋め込まれており、ナショナリズムのもう一方の構成要素であるイスラム的伝統との不整合が、政治的安定を損なっている。

 しかし、トルコ・ナショナリズムの信奉者の中で最大の犠牲者は、意図せず「トルコ人」にされてしまった人々であろう。ブルガリアには、推定百万人以上の「トルコ人」が暮らしている。かれらはオスマン時代やそれ以前に現在のブルガリアの領域に移住してきた人々の子孫であり、トルコ・ナショナリズム成立以後のトルコ国家とは常に距離をおいて暮らしてきた。ブルガリアの「トルコ人」は、われわれの調査ではほぼ二つのグループに分けることができる。一つは、トルコ国境に近いカルジャリ市を中心とするブルガリア南西部に居住する人々であり、かれらは比較的トルコ共和国のトルコ語に近い言語を話している。いずれもムスリムであり、ブルガリア共和国内のトルコ人マイノリティーと呼ぶことにあまり抵抗はない。一方の集団はドナウ川沿岸に点在するコミュニティーと北西部のシューメン市を中心とする地方に暮らす人々である。かれらはトルコ系の言語を話しているが、日常会話ではブルガリア語や標準トルコ語(そんな言い方があるかどうかしらないが)では古語に属するオスマン語的な表現を多用する。ドナウ川沿岸のトルコ系コミュニティーはこの川がオスマン帝国の国境線であったために長年にわたって幾度も入植が行われた結果でき上がったが、その最後の入植運動はオスマン支配末期の一九世紀中盤に行われた。これはクリミア半島とコーカサス地域がロシア領に編入された後、ロシア政府の迫害を恐れて移住してきたクリミア・タタール人やチェルケス人(コーカサス山岳部のトルコ系諸民族の総称)であった。かれらのかつての同郷者たちはその地にとどまって現在ではトルコ共和国のトルコ人とは明瞭に異なったナショナリティーをもっているのにたいして、ブルガリアに移住させられた人々は、ネガティヴな差異化の結果、自分自身の意識とは無関係に「トルコ人」とレッテル貼りされ、そう信じ込むことになった。一九八〇年代のトルコ系への迫害政策を逃れる移住や八九年以降の自由化の結果、トルコへの旅行が容易となり、ドナウ沿岸からもトルコを訪れるものたちが多くなってきたが、幾人かの知人はそこで経験した当惑を明かしてくれた。

 先に述べた西トラキアにも現在推計で一五万人ほどの「トルコ人」が暮らしている。今日ではかれらをトルコ人と呼ぶことはまれで、通常は「ギリシャのムスリム」と呼んでいる。かれらはいわば国際条約によって保護されたマイノリティーであり、トルコ語教育がかたくなに禁圧されてきたブルガリアとは対照的に、小学校ではトルコ語の専任教師がおかれ、独自の自治組織をもっているが、かれらも「トルコ人」であるがゆえの不自由を被っている。西トラキア以外の地域に移住することはできず、家屋の改築その他に関してもいちいち特別の許可を申請する必要がある。トルコ語での教育は容認されているが、高等教育をトルコ語で受けることはできないため、外国に留学するか、多分に不利ではあってもギリシャ人と同じ試験を受けて大学に進む以外のみちはない。そして、当然のことながら、高等教育を受けることのできる「トルコ人」の割合は、他のギリシャ人と比較するとはるかに低いのである。 こうしたトルコ系マイノリティーは、バルカン各国のいずれにも存在している。その多くは、近隣の主要民族と比較するとはるかに低い生活水準に暮らし、古くからの生活様式をかたくなに守っている。西トラキアやブルガリアのロドピ地方、旧ユーゴスラヴィアの「マケドニア共和国」では、そうしたトルコ系マイノリティーの暮らす村々でいまだに女性のほとんどがチャドルを着用して暮らす姿を目にすることができる。これは一種の代償行為であり、そうしなければ移住という道を選ばない限り、自らのアイデンティティーを保持することができないのである。 西トラキアに暮らす友人の一人は、非常に粗末な家に暮らしているが、トルコ国内には三階建ての一軒家を所有している。そのわけを尋ねると、トルコに家を持っているのはギリシャで何かあった場合に移住できるようにするためであり、ギリシャをはなれないのはトルコよりも給与水準が高いからと答えてくれた。かれもやはり、民族主義国家の影におびえる一人なのである。 トルコ・ナショナリズムは(もちろん、他の国々のナショナリズムも同様に)国家をナショナリティーという鎖で閉ざされた領域へと変えてしまった。そこに閉じ込められたほとんどすべての人々が、この牢獄の中で苦痛にあえいでいる。その隷属感は、民族への信奉度が高ければ高いほど、いやますのである。この馬鹿げた民族の時代を生きたカザンザキスは自らの墓碑名に次のように刻ませた。「私は何も信じない。私は何も恐れない。私は自由だ。」


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