クレズモリム(Der Glater Bulgar)
アメリカ Dave Tarras and Sid Beckerman
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竹田賢一(大正琴)、小山哲人(bass)、岩館洋(alto saxophone)、大熊亘(clarinet)、千野秀一(piano, organ)、中尾勘二(drums)
ゲスト:春日博文(guitar)
text トム・“クォーレ”から学ぶことはこれからもできる(竹田賢一)

トム・“クォーレ”から学ぶことはこれからもできる(竹田賢一)

 路地の入り口で立ち止まる人影。その女性が訝しげにこちらを見る。ぼくも、まさか、と思いながらいつのまにか立ち上がっている。

 それは去年(1997年)の夏、南仏はアヴィニョンの町のことだった。ぼくは劇団DA・Mの人たちと一緒に、『aruku』という演劇を上演するためにここに来ていた。演劇にとって大変に重要だというジャン・ジュネの文章から名づけられたフュナンビュル(綱渡り)劇場は、アヴィニョンのほかの多くの劇場と同じように、演劇祭の期間中だけオープンする。したがって建物も劇場用に建てられたものではなく、他のフロアには関係のない住人が居住する普通のアパートだ。面する通りも今でも甃の残る裏道、散歩していて通りかかるような筋でほない。

 フュナンビュル劇場では、やはり演劇祭の間のほかの劇場と同じように、毎日4つも5つもの作品が上演される。それぞれの公演の間の短い時間に、美術やサウンドのセッティングを行い、ばらしを行うのだ。控え室らしい控え室もないので、ぼくたちは前の劇団が公演している間、地中海の太陽の光が真上から降り注ぐ劇場前の路地で待機していた。

 そんな思いもしないところで、お互いの目を疑いながら再会したのは、カトリーヌ・ジョニオーだった。MIMIフェスティヴァルの帰り、アヴィニョンに来ている友人と会う約束をして立ち寄ったのだが、同じ劇場で踊っていたシャクティのポスターを見て、ちょっと覗きに来たのだという。

 未だにこのような偶然がいったい起こりうるだろうか、という驚きは消えない。とりわけ、その後にトムを襲った運命を知った今では、いかな無神論者を自任するぼくであっても、時に"導きの手"のような働きを想定したくなることがないとはいえない。

 カトリーヌから、彼女とトム・コラ、息子のイライアの一家は、前年12月にマルセーユからプロヴァンスの山の中に引っ越した話を聞き、ぼくは休養にあてるつもりだった唯一のオフの日に、彼らを訪ねることにした。

 レザルク(Les Arcs-sur-Argens)は、マルセーユから二一スヘ向かう急行で、軍港トゥーロンの次、映画祭で有名なリゾート地カンヌの一つ手前の駅だ。周辺に何もない小さな駅の待合室に三々五々たむろしているグループはみな軍服を着た青年たちなので、この近くにも基地か駐屯地があるのだろう。

 迎えに来てくれたトムとともにスーパーで買い物をし、古くこぢんまりしたレザルクの市街を抜け、小さな川に沿った登り道を20分ほどドライヴして到着した集落は、日本の過疎の村のたたずまいと大して変わりない。ヨーロッパにしては湿度が高く、この蒸し暑さも大月の山間の集落を思い起こさせた。

 トムたちの家は、木造だがとてもしっかりした造りで、100年ほど前に建てられて、かつては学校として使われていたものだそうだ。大きな台所兼食堂になっている土間や居間のある1階、プライヴェート・ルームの2階は自分たちで内装を済ませ、屋根裏部屋は、日本の山村では蚕部屋にあたるのだろうか、学校時代に作業室として使われたのだろう、隅には古い道具類が積まれている。ここは簡単なレコーディング・スタジオにするつもりだと、トムは改装のプランを語ってくれた。

 夏の休日の昼下がり、マルセーユのロック・バンドでギターを弾いている青年、エレクトロニクス・ミュージックと即興音楽を扱う世界のマイナー・レーベルのディストリビューターを始めた青年が、家族連れで来ていて、庭のたらいでは、イライアと訪問客の子供たちが素っ裸で水をかけ合っている。カトリーヌは大きな皿洗い機を自慢する。お母さんが買ってくれたのだそうだ。

 イヴァ・ビットヴァとパーヴェル・ファイトが子供たちとともに到着し、みんなで川に泳ぎに行くことになる。

 トムは痩せているうえに身長が185センチもあるので、もともとひょろっとしている。でも、子供たちと水遊びに興じる彼は、また痩せたように見える。かつてがりがりだった自分の今の姿と対比すると、やはり心配しないではなかった。顔の彫りがさらに深くなったように見えるのも、思い過ごしではない。だが、40代も半ばになって、トムも老けたんだな、と自分を納得させ、あえて健康のことは話題にのぼせなかった。

 ぼくたちは、屋根裏スタジオのほかにも、トムのプランについて語り合った。フレッド・フリスとともにつくった素材集のCD-ROM『ETYMOLOGY』のこと。シカゴで上演する予定のブレヒト『マハゴニー市の工房』を基にした音楽劇の作曲をしていること。トゥアーに明け幕れるのではなく、家族とともにいられる落ち着いた音楽活動を願っていた彼は、これは大事な仕事で、もっとも神経を傾けていた。そして、THE EXのリズム隊とフィル・ミントンとともに始めたグループ、ROOFのこと。メンバーの二人はオランダ人で、交通費の補助とか受けやすいので、来年(1998年)あたりジャパン・トゥアーはできないだろうか。

 ぼくが初めてトム・コラと会ったのは、1982年の10月、パリの「デュノワ通り28」というライヴ・ハウスだった。その1〜2年前から、ニューヨークのライヴ・カレンダーで、カーリュー(Curlew)をはじめいくつかのユニットに名前があることを目にしていた。しかし、彼の演奏を、彼の蔚楽を耳にしたのは、Vエフェクト(V-Effect)とジョイントでスケルトン・クルー(Skeleton Crew)のステージに登場したこのときが最初だ。ぼくほこのとき目撃した知情意の全力を傾注した演奏に感動して、多くの人に迷惑をかけながら、1983年から86年にかけて、2回のスケルトン・クルーと1回のトムのソロによる日本トゥアーを制作することになった。

 だからぼくは、トムの音楽について、本当はもっと語るべきなのだろう。ユージン・チャドバーンとの活動、カーリュー、ニマル(Nimal)、ダック・アンド・カヴァー(Duck And d Cover)、サード・パースン(Third Person)、ザ・エクス + トム・コラ、ルーフ、フレッド・フリスや梅津和時をはじめとする多くのミュージシャンとのコラボレーション、そして彼のソロ。100枚に及ぶ彼の参加したアルバムのすべてに耳を通したわけではないけれど、そこを一貫する真正のアマチュアリズム=音楽愛好のあり方について語るべきなのだろう。

HALLELUJAH, ANYWAY Remembering Tom Cora  しかし、今ぼくの脳裡を去来してやまないトム・コラは、国民戦線が支持を拡大しているプロヴァンスに外国人として土地と家を買った彼なのだ。1953年に温暖な気候のヴァージニアでイタリア系アメリカ人として動悸を始め、1998年4月、700年前にローマ法王と北フランスによって徹底的に蹂躙されたラングドックの地で動きを止めた心臓なのだ。生まれた直後に里子にしたアフリカ系アメリカ人と朝鮮系アメリカ人の血を引く子供にユダヤの名前をつけた心(クォ一レ)なのだ。


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