忘れ酒(A ton kay mou pimo)
ギリシャ風クレズマー
RealAudioストリーム MP3 Download wave data
竹田賢一(大正琴)、小山哲人(bass)、岩館洋(alto saxophone)、大熊亘(clarinet)、千野秀一(piano)、中尾勘二(drums)
text シュテートルから (細見 和之)

 京都在住のあるユダヤ人女性から、「シュテートル」と題された画集を見せていただいたことがある。「シュテートル」とは、イディッシュ語の「シュトット(都市)」の縮小形で、とくに19世紀にロシア(ポーランドやウクライナをふくめ)やルーマニアでユダヤ人たちが暮らしていた集落が「シュテートル」と呼ばれる。その画集には、木造のつつましい家屋、通りをゆく牛や馬、行商人、それに木陰で遊ぶ子供たちなどが、淡いタッチの水彩で描かれていた。作者はパリで永らく医師として働いてこられた年配のユダヤ人男性。それは、その老医師のごく幼い頃の記憶のなかのシュテートルであり、父母や祖父母から聞かされてきた物語のなかのシュテートルである。もちろんこれらのシュテートルは、ナチによる「(ユダヤ人問題の)最終的解決」と称する「移住作戦」によって、1940年代の初頭にはことごとく壊滅させられたのである。ほんとうに集落が、コミュニティ全体が、丸ごと一掃されたのだ。その画集の終わりは、草の生い茂った原っぱだった。タイトルは「墓地」。そうなのだ、墓すら荒らされ、いまでは、そこが墓地であったことも分からない状態なのだ。その女性は画集を繰りながら、「アウシュヴィッツ」だけがユダヤ人じゃないのです、それ以前の暮らしも知ってほしいのです、と何度も繰り返されていた。シュテートルで五〇年平和に暮らせることはなかった、つまり、五〇年のあいだには、必ず疫病かポグロム(ユダヤ人にたいする民族虐待)が猛威を揮ったという、かの女の耳にこびりついている祖父母からの言い伝えとともに。

 パリ生まれのかの女自身そうなのだが、フランスやドイツに暮らしているユダヤ人には、二代前、三代前にさかのぼれば「シュテートル」から成功を夢見て都市部へ出てきたひとりの東方ユダヤ人にゆきあたる、という例が多い。たとえば、ホロコーストへの関与者の証言を集めた記念碑的な映画『ショアー』の監督クロード・ランズマンも、祖父の代にベラルーシ(白ロシア)のシュテートルからパリに出てきた家系である。そして父の代で軍隊での活躍もあってフランス国籍を取得しながら、孫の代になって、ふたたび自らのユダヤ人性に向き合うことになったわけである。これは「同化」を遂げていった東方ユダヤ人の逆説的な歩みを典型的に示している例だろう。もちろんそのようにしてキリスト教社会に「同化」していったひとびとの大半は、ナチの絶滅作戦によって根絶されてしまったのだが。南ウクライナ出身のレオン・トロツキー、トランシルヴァニア生まれの作家エリ・ヴィーゼル、ベラルーシ出身の画家マルク・シャガールなどにしても、かれらの幼児の記憶はシュテートルの風景に彩られている。とりわけシャガールは、13歳まではイディッシュ語だけを話していたうえ、かれの妻ベラは、その回想録をイディッシュ語で綴ることになるのである。

 このシュテートルの暮らしがどんなものだったか、ぼくらにいちばん生き生きと伝えてくれるのは、日本でも森繁久弥のミュージカルで大ヒットした『屋根の上のヴァイオリン弾き』だろう。ラビを中心にした、ユダヤ教の伝統と習慣に忠実な、貧しいが、しかし暖かなコミュニティ。金曜日の日没とともにはじまる週に一度のサバト(安息日)が、単調な暮らしにほとんど唯一の刻み目を入れている生活。異郷の地でユダヤ教徒としての戒律にきわめて厳格であったことから、東方ユダヤ人はまた、19世紀の終わりからはシオニズムの中心的な担い手ともなる。だが、イディッシュ文学者ショレム・アレイヘム(1856-1916)の連作『牛乳屋テヴィエ』にもとづくあの映画(ミュージカル)は、シュテートルを統べていた「伝統」がすでに崩壊してゆくプロセスを描いてもいる。テヴィエの長女は父親の選んだ相手とではなく幼なじみの貧しい仕立屋と結婚するし、次女はツァーの権力によって逮捕された大学出の革命家(活動家)を追ってシベリアへ旅立ち、三女にいたっては家出して勝手にキリスト教徒の青年と教会で式を挙げてしまう。シュテートルは、キリスト教社会のなかで異教徒、異民族として零細な職業に従事しながら暮らしているユダヤ人たちにとって、かろうじて肩を寄せあえる居住区であるとともに、若い世代にとっては旧習に支配された不自由な寄り合い所帯的な場でもあったのだ。

 しかも、19世紀の後半には凄まじいポグロムが吹き荒れる(とくに1881年の大ポグロム)。それは、ガリツィア、ルーマニアといった地域にまで広がり、この一帯から当時、百万人のユダヤ人が難民として流出したと言われている。この難民の西への流入が、20世紀の反ユダヤ主義に新たな下地を提供することになるのだが、そのなかには、まさしくテヴィエ一家がそうであるように、「新天地」アメリカをめざした人々も多かった。そして、その流浪と移住のなかで、シュテートルでのかつての暮らしは次第に牧歌的な追憶とともに振り返られることになる。20世紀初頭のイディッシュ文学やイディッシュ演劇において、「シュテートルもの」は欠くことのできないテーマとなり、ジャンルとなる。

 そして、これも『屋根の上のヴァイオリン弾き』が繰り返し描いているように、このようなシュテートルの暮らしと音楽は、切っても切れない関係にあった。ことあるごとにテヴィエの傍らにはヴァイオリン弾きが現われ、かれを慰め、また励ます。娘の仮の婚約の場面で、そして結婚式の場面で、爆発する音楽と踊り。その祝宴を、冷水を浴びせるようにポグロムがぶち壊しにするとしても、最後のニューヨークへむけての、骨の折れる長途の旅を励ますのもまた、どこからか現われてくるひとりのヴァイオリン弾きなのだ。シュテートルのユダヤ人ひとりひとりの胸のうちには、まるで道化師のようなヴァイオリン弾きが必ずひとりは住まわっていたかのように思われる。シャガールのカンバスでおなじみの、絵のさまざまなモチーフに寄り添うようにして存在している、あのヴァイオリンとヴァイオリン弾きの姿――。

 モーゼ十戒のひとつ「偶像崇拝の禁止」によって、伝統的にユダヤ人は画家を輩出することが少なかったと言われている。「偶像崇拝の禁止」とは、たんに異教=邪神を偶像として崇めることの禁止ではなく、絵画であれ彫刻であれ、本来「絶対者」である神を図像的に表象してはならないという禁令だった。西洋絵画の歴史がおよそキリスト教絵画の歴史を抜きに語れないことを考えてみれば、この禁令による欠落の大きさを十分理解することができるだろう(20世紀になると、それこそシャガールやモジリアニなどユダヤ系の画家が大いに活躍するようになるが、これはこれで別のテーマとして考えてみる必要がある)。だがその分ユダヤ人は、伝統的に音楽にその才能を傾けてきた。メンデルスゾーンからオッフェンバック、マーラー、シェーンベルクにいたるようなクラッシック畑の流れは言うにおよばず、ジャズのベニー・グッドマンからボブ・ディランにいたるまで、ユダヤ系のミュージシャンの名はそれこそ枚挙にいとまがない。

 いま「ワールド・ミュージック」ブームのなかで(変に?)注目されている、クレズマー・ミュージックは、このようなユダヤ人と音楽の深い結びつきに発祥する(「クレズマー」の元になっているのは、イディッシュ語の「クレズメル」で「音楽家」の意。複数形は「クレズモリム」)。いまだシュテートルが存在していた頃、ユダヤの旅芸人たちは、ヴァイオリンやギターを携え、ロシアの一帯を放浪してまわり、ときにはバルカン半島にまで足を伸ばした。そうして各地の民族音楽と接するなかから、あのクレズマー・ミュージック特有の旋律とリズムをかれらは作り上げていったのだ。したがって、クレズマー・ミュージックは元来きわめて雑種的である。ニューヨークのイディッシュ・ジャズバンド(?)「クレズマティックス」のテープをある研究会で聴いてもらったところ、年長の参加者のひとりからぼくは、グルジア音楽そっくりだ、との感想を受けたことがある。待ちに待っていた、トロツキー暗殺成功の報せを受けて、スターリンが聞き耽り、踊り耽っていたというグルジア音楽――。もちろん、だからといって、グルジア音楽それ自体に何ら罪があるわけではないが。

 ここで、すでに繰り返し引き合いに出してきたイディッシュ語に簡単に触れておく必要があるだろう。歴史的には、11世紀、12世紀頃ユダヤ的色彩の濃いロマンス語を話していたユダヤ人が、イタリア北部やフランス北部、モーゼル河やライン河流域に集団として移住し、古いドイツ語(いわゆる中高ドイツ語)と接触したのが発端とされる。その後、ペストがヨーロッパ全土に猛威を揮った際に、このユダヤ人たちは中欧や東欧に「移住」を余儀なくされる(もちろんペストを逃れるためではない。「ペストの元凶」としてかれらはキリスト教徒から迫害され、追放されたのだ)。そこで、スラブ語の強い影響を受けて、「イディッシュ語」の基本が形づくられることになる。したがって粗っぽく言えば、古いドイツ語の語彙と文法を基本にしながら、旧約聖書に由来するヘブライ語、新たに加わったスラブ語の語彙や特徴が溶け合ったもの、それが「イディッシュ語」である。発音だけで聞けば、ドイツ語を解する者なら普通八割程度は理解できると言われている。ここから、イディッシュ語をドイツ語の歪んだ「一方言」として蔑むような発想も生じる(だからこそ、イディッシュ語を話すひとびとは、ドイツ語と混同されることを何より嫌悪した)。表記には、ヘブライ文字を使用する。慣れないぼくらには、音符をひっくり返した「記号」のように見えるが、あくまでヘブライ文字で綴ることが、イディッシュ語の表記上のアイデンティティなのである。アルファベットに転写した表記もなされるが、それは便宜上の方便にすぎない。しかも、このアルファベットによる転写にも研究者や研究者の母語によっていくつかのパターンがあって、必ずしも統一されていない。

 クレズマー・ミュージックと同様この「雑種的」なイディッシュ語にたいして、19世紀後半からは、古代ヘブライ語の復活が実験的に試みられる。とくにシオニストのあいだでは、ヘブライ語と比べてイディッシュ語を一段下の言語と見なすような風潮も生まれる。一時は一千万を越えていたと言われるイディッシュ語人口も次第に減少してゆき、第二大戦後は往時の数パーセントにまで激減する。もちろん、語り手そのものが直接、物理的に殺戮されてしまったからだ(いかにもプラクティックなアメリカでは、「トゥデイ・スタディー、トゥモロー・トラベル」だかをキャッチフレーズにした語学テープのシリーズに、イディッシュ語の会話テープも収められているのだが――これはとても激しい「英語訛り」のイディッシュ語で録音されている――、いったいどこに行けばイディッシュ語をごく自然なマザー・タングとして話すひとびとと「会話」できるのか、ほんとに分からないというのが現状なのである)。

 ぼくらがイディッシュ・リートとして聴くことができる音楽の多くは、モダーンなフォーク・ソングとして、すでに都会的・ヨーロッパ的にずいぶん「洗練」されたものが多いのだが、そんななかのひとつに、ぼくらにとってあまりに馴染み深いあの「ドナドナ」がある。これはいくつかの機会にすでに書いたことだが、ここでも最後に少し紹介しておきたいと思う。あの歌のなかの、牽かれてゆく「哀れな仔牛」がポグロムの対象としてのユダヤ人であると知ったときの衝撃、それがぼくにはやはり忘れがたいからだ。

 ぼくのもっているドイツのフォーク・グループ、ツップフガイゲンハンゼルがイディッシュ・リートをイディッシュ語で歌ったレコードには、パルチザンの讃歌や労働運動歌、祝婚歌などと並んで、「ドナドナ」(仔牛の歌)が収められている。そこには作者についての短い解説も付されていて、その解説は、メロディーをトラディショナル、歌詞の作者をイツハク・カツェネルソンとしている。カツェネルソン(1886-1944)はポーランドのユダヤ人で、ポーランドの工業都市ウッチを拠点に、イディッシュ語とヘブライ語で詩や歌や戯曲を書いていた人物。幼い頃、かれもまたベラルーシのミンスク近郊の寒村から、父に連れられてウッチに引っ越してきたくちである。1942年にかれは、妻と二人の息子をナチによってトレブリンカのガス室に奪われるのだが、レコードの「解説」は、カツェネルソンはこのときの印象を「仔牛の歌」に託した、と記している。かれはその後、1943年4月のあのワルシャワ・ゲットー蜂起に参加する。かれは同胞の手助けによって、蜂起の英雄的な、しかし壊滅的な敗北のなかを、辛うじて生き延びる。そして、フランスのヴィッテルの抑留収容所の地中にイディッシュ語で綴った最後の作品『滅ぼされたユダヤの民の歌』の草稿を隠したのち、1944年5月、妻子のあとを追うようにして、アウシュヴィッツ−ヴィルケナウのガス室のなかに消えてゆく。

 もっとも、「ドナドナ」については別のユダヤ人を作者とする説もある。つまり、あの歌が世界的にヒットするきっかけとなったジョーン・バエズのレコード(CD)には、作詞アーロン・ゼイトリン、作曲ショロム・セクンダというクレジットがあり、成立年は1940年とされているのだ。別の資料は、ニューヨークのイディッシュ劇場で上演された戯曲の挿入歌として、1940年にセクンダがこの歌を作ったと伝えている。もちろん、1940年ならば、「アウシュヴィッツ」との直接的な関連はなくなる。だが、あの歌がほかならぬポグロムの歌だという点はあくまで揺るがない。ポグロムの歴史のなかで、おおよそあのような歌詞と旋律がトラディショナルとして出来上がっていて、それをカツェネルソンとセクンダがそれぞれのコンテキストで楽曲として仕上げたのだ、とも考えられる。あるいはほんとうは、「ユダヤ人の歌」ですらなくてかまわないのだ。歴史のなかで、「仔牛」のように牽かれ殺されていった民衆の数はしれない。そしてぼくらは残念ながらいまも、「ドナドナ」の旋律のもつ悲しみをもはやまったく理解できないような幸福な時代に生きているわけではまるでないのだ。



▲ TOP