ロンドンデリー(London-Derry)
フランス 作曲:Julian Clerc|作詞:Etienne Roda-Gil|訳詞:竹田賢一
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竹田賢一(大正琴)、小山哲人(bass)、岩館洋(alto saxophone)、大熊亘(clarinet)、千野秀一(piano)、中尾勘二(drums)
ゲスト: 春日博文(guitar)、 大友良英(sound collage, chorus)、 澤民樹(violin)、松原幸子(chorus)、 角田亜人(chorus)
text ロンドンデリーと呼ばれた街  (茂木 健)

 「ロンドン政府とダブリン政府が、ノーザン・アイルランド問題の平和的解決へ向けての“新たな方策”を打ち出さないのであれば、われわれは、さらなる25年間を戦う用意がある。」1996年3月6日、IRAの政治団体であるシン・フェイン党の党首ジェリー・アダムスは、アメリカの雑誌取材に応えるかたちで、シン・フェインとIRAを急先鋒とするリパブリカン――南北アイルランド統一論者――の意志をこう示した。

 IRAは、1994年9月に、ノーザン・アイルランドにおけるブリテン支配からの脱却を求める武力闘争の停戦を宣言、ユニオニストと呼ばれる親ブリテン派プロテスタント諸団体も、同年10月、停戦に合意した。1969年にブリテン軍が投入されて以来、25年続いた紛争が終結し、話し合いによる問題の解決がいよいよ開始されるかに思えたものの、「全当事者が一堂に会した話し合い」を始めるための条件として、ユニオニストとロンドン政府はIRAの完全な武装解除を要求した。武力闘争を長く行ってきた二者のうち、一方のみ武装解除せよと言うのは、傍観者の耳にも降伏要求と聞こえる。当然のようにIRAはこれを拒否し、ずるずると1年以上が過ぎた96年2月9日、IRAによるロンドンでの爆弾テロが発生し、停戦は破られた。

  その後、さらに1年の膠着状態と散発的なテロ行為(といっても94年以前に比べたら微々たるもの)が続く。そして、97年5月のブリテン総選挙で保守党が破れ、労働党のトニー・ブレアが首相に就任したことにより、ブリテン政府のノーザン・アイルランド和平交渉に臨む態度に軟化の兆しが現れる。それでも、ユニオニスト側が強硬な姿勢を崩していないし、IRA側も新たな停戦を宣言していないので、交渉開始に合意するのにも、まだまだ曲折があるに違いない。

 停戦が破られた直後に発表された「さらなる25年を戦う用意がある」というシン・フェイン(IRA)首脳部の前述の声明は、脅しでもなければ強がりでもない。かれらとブリテンとの闘争は、すでに400年を超える長きに及んでおり、その中での25年など、ほんのひとコマに過ぎないのだから。

 16世紀。ローマと訣別し独自の新教(プロテスタント)を奉じる英国国教会を設立した強国イングランドにとって、かねてより完全制圧を果たせていなかった隣国アイルランドは、危険な存在となっていた。宗教と政治が表裏一体となっていた時代である。アイルランド各地の豪族たちは、カトリックの教義を堅持しながら、フランス、スペインという大陸ヨーロッパのカトリック強国といつでも手を結べる状況にあった。イングランドにとっては、裏口にあたるアイルランドにカトリック列強が乗り込んできたら致命的な結果になりかねない。そこで、アイルランドを植民地化して、征服しようという動きがいっそう熱を帯びる。

 アイルランドの植民地化を図るイングランドに対して、北部アルスター地方を治めていた豪族の首長たちが反旗を翻したのは1595年だった。タイローン伯ヒュー・オニールに率いられたかれらは、8年間を戦ったもののイングランド軍に打ち負かされる。1607年、首長たちはアルスターの領地を捨て、ヨーロッパ大陸へ亡命した。これが、「伯爵の逃亡」と呼ばれるアイルランド史上の大きな節目のひとつだ。無防備になったアルスターを、イングランドはやすやすと手中に収め、同地へのプロテスタント植民を本格化した。

 植民の実務面は民間にも委託され、アルスター西部への植民の斡旋を政府から請け負った業者たちは、ロンドン・アイリッシュ協会という組合を1610年に設立する。この組合によって、それまで現地の人びとによって単にデリーDerryと呼ばれていたアルスター西部最大の街は、ロンドンデリーLondonderryと一方的に改名されたのだ。

 この都市名は、現在もブリテン側では公式の名称だ。しかし、アイルランド共和国で作られる地図などでは、必ずといっていいほどデリーという旧称が使われている。南北アイルランド統一を願う人びとにとって、「ロンドンデリー」という呼称は屈辱の歴史の象徴でしかあるまい。この都市をどう呼ぶかで、その人のアイルランドに対する意識を、ある程度うかがいい知ることができるだろう。

 19世紀後半から先鋭化したアイルランド独立闘争は、1922年にアイルランド自由国の成立で実を結ぶが、プロテスタントが人口面でも多数派となっていたアルスターの6州は、引き続きブリテン領ノーザン・アイルランドとして存続することになった。この事実こそが、アイルランド独立後も続くノーザン・アイルランド問題の根幹である。

 時代を引き寄せよう。1950年、デリーの町外れ、ボグサイドと呼ばれる貧しいカトリックの居住区に住む労働者、トム・マクギネスと妻のペギーの間に息子が生まれ、マーティンと名づけられた。選挙、住宅、就職などのさまざまな面でのプロテスタントによるカトリック差別を肌で感じながら、マーティンは成長した。そして、彼が17歳になった1968年、差別に忍従していたボグサイドのカトリックが立ち上がる。

 「1968年は、学生運動、ヴェトナム戦争、パリ5月革命の年だった。ノーザン・アイルランドでは、中流家庭出身の学生たちが、ユニオニストによる権力の独り占めに抗議して、《勝利を我らにWe Shall Overcome》を合唱しながら通りを行進した。だが、西側民主主義諸国家でヒッピーと警察の暴徒鎮圧部隊が繰り広げたファッショナブルな闘いよりも、アルスターの闘争は、遥かに古いものだったのだ。」(Kevin Toolis著『REBEL HEARTS』Picador, 1995)

 ナショナリスト(カトリック)への差別撤廃を求めるノーザン・アイルランドの「公民権運動」は、武装集団であるIRAの「大義」と併走しながら展開するユニークなものだった。デリーでも、小規模な暴動が夜毎繰り返され、若きマーティン・マクギネスも進んで争乱の渦に飛び込み、石や火炎瓶を投げた。

 両派の緊張が最高に高まっていた1969年8月12日、1689年のデリー包囲戦の戦勝を例年通り祝うために、アルスター各地から強硬派のユニオニストがデリーに集結した。ナショナリストは、かれらに石を浴びせかけ、怒ったユニオニスト側は警官隊と共にボグサイドへ突入、ボグサイドで事実上の市街戦が開始される。2日後、敗北を認めたのは、なんと警官隊の側だった。当時のブリテン内務大臣、ジェームズ・キャラハンは、秩序回復の名目でブリテン正規軍のデリー投入、つまりブリテン軍によるノーザン・アイルランドの治安維持を決断する。1994年まで続く「北アイルランド紛争The Trouble」は、まさにデリーで始まったと言えよう。


 1972年1月30日、日曜日。すでに開始されていたナショナリスト過激派に対するインターンメント(逮捕状なしの拘禁)に反対して、数千人の一般市民が集まり、デリーの街で平和的なデモ行進を行った。この頃までにはIRAのメンバーとなっていたマーティン・マクギネスも、当然のように参加している。この全く非武装の市民からなるデモ隊に向けて、警備に当たっていたブリテン軍が、いきなり発砲したのだ。マクギネスが語る。

 「あのデモでは、いかなる暴力的行為も行ってはいけない、ということになっていた。インターンメントに反対して、数千人の人びとが通りを歩くことのほうが、ずっと重要だと考えられていたからだ。わたしたちはみな行進に参加し、ボグサイドにさしかかったところで、落下傘部隊が人びとを撃ち殺した。わたしは、わたしの周囲で人びとが死んでゆくのを見ていた。わたしにできることは何もなかった。心の底から、怒りが湧いてくるだけだった。」(Toolis前掲書より)

 13人の市民が射殺されたこの日曜日は「血の日曜日Bloody Sunday」と呼ばれ、「紛争」の中でもひときわ重大な事件となっている。A-Musikが歌う《ロンドンデリー》のソースとなった同名曲が収録されているジュリアン・クレールのアルバム、『幻想と寓話』がフランスで発売されたのは、1972年の11月。この事件から発想された歌であることは、まず疑いないだろう。言うまでもないことだが、U2の出世曲となった《ブラディ・サンデイ》も、この事件を見据えた名曲だ。

 最後に、「血の日曜日」以後のマーティン・マクギネスの足跡を追っておこう。教育こそないものの、マクギネスは指導者として生来の才能を持っていたようで、IRAデリー連隊の中で昇進を続け、やがて軍事作戦立案の責任者となり、ついには同連隊の最高指導者となった。

 1997年7月現在、マーティン・マクギネスは、シン・フェイン側の代表者として、ジェリー・アダムスと共に、ダブリン/ロンドン両政府、さらに調停役のアメリカを相手にした交渉の任に当たっている。


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