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[座談会出席者] 竹田賢一、小山哲人、鈴木健雄、平井玄、 府川充男、石渡明廣、佐藤隆史、竹田福子 |
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小山 竹田さんが<A-Musik>とヴェッダ・ミュージック・ワークショップというふたつのグループを同時並行してやっている理由はどのへんにあるの?もっとも最近ヴェッダはあまり見かけないけど……。 竹田 ぼくの好みからすると2つや3つじゃなくて、できることならいろいろ性格の異なることすべてを同時にやっていきたいのね。ともかく、「あれか、これか」という発想は大嫌いで、「あれも、これも」という贅沢なやり方をしたい。 小山 ああ、なるほど、もうちょっとヴェッダと<A-Musik>の説明を……。 竹田 一言でいってヴェッダは即興演奏をやるワークショップ、<A-Musik>は曲をやるバンドということなんだけど。ヴェッダはそこから何が生まれてくるかわからないことをともかく実験してみようというところで、少しも完成された形を意識しないでやってきた。だから“音楽”になろうとなるまいとかまわないって感じで。<A-Musik>ではもう少し、常識的な意味で“音楽”に与えられた意味に沿って、それをどれだけ異化できるかってのが、ぼくの課題かな。そういえば、どちらもミュージックとかムジークとかが入っているんだよね。そんなに意識してなかったんだけれど、あとから深層心理を自分で探ってみると、複合感情という意味での音楽に対するコンプレックスがすごく強いんだなという気がする。 小山 <A-Musik>の<“A”>の由来は? 竹田 <E-Musik>、<U-Musik>というのは知っている? ドイツ語で、<erste Muslk>と<unterhaltunge Musik>の略語なんだけれ、<E-Musik>、<U-Musik>というほうが普通直訳すると純音楽と大衆音楽となるのかな。 小山 純音楽と大衆音楽というのはいわゆる<fine art>と<commercial art>という区分に相当するの? 竹田 具体的にはクラシック音楽からその系統での現代音楽みたいなのが<E-Musik>で、ポップスとか、民謡とかが<U-Musik>。別の言葉でいうと芸術音楽と通俗音楽。それで、最初のコンサートの案内状にドイツ語で書いたんだけども、<A-Musik>は、<E-Musik>と<U-Musik>、どちらもやって、かつどちらとも違うことをやる、と。だからそのかたちは踏襲して、EでもUでもない文字を何かつける必要があって、その時に迷わずAにしたのね。Aにしたというのはやっぱり何かの頭文字なんだけども、それをどのへんまで明らかにしていいかってのは考えてしまう。はっきり言っちゃうとイメージが固定されてしまう。 小山 でも、言っちゃってもいいんじやない。 竹田 いや、Aが頭につく単語なら何でもいいんだ。 鈴木 “アナーキー”。 小山 “アーティフィシャル”とかね。 平井 やっぱ“アンチ”でしょ。(笑) 竹田 その3つがやっぱり最初に思い浮かんだ。(笑)だいたいみんな考えることは同じなの。だからあまり言いたくないわけよ。それ以上は、聞いた人がみんな自分で、考えてつけ加えて、もっともっと多義的になっていって……。 平井 “アナクロ”じゃない?(笑) 竹田 あ、それも結果として当たっている気がするな。……僕の順番からいくとアナーキー、アンチ、アーティフィシャル.ただね、Aが最初につくと特にアンチといわなくても、もう否定の接頭辞だから。それがいちばん強力な意味をもってるのね。“反音楽”。 平井 “間”は関係ないの? アイダ・アキラ?(笑) 小山 アイダ・ミュージック、いやアイダ・ムジーク。 府川 アイダ・ミュージックっていいね、なんか船橋あたりでさ……(笑) 竹田 でもちょっとアイダって名前良すぎるね。間っていう感覚は好きだもんな。音楽だって本来、間主観的な作業だからね。 鈴木 間章って本名? 竹田 うん、本名。 小山 <“AQUIRAX”>ってのもかっこよかったね。 鈴木 そうね。 平井 ラテン語みたいだもんな。 鈴木 コーニリアス・カーデューと間章の死んだ日が同じなんだよね。12月12日。 平井 でも阿部薫もAだよ。……なんか懐旧談になりそうなんで、話をもどして……。 小山 最初に結成した時点で、<A-Musik>はわりと“曲”をやることにこだわっている部分があったと思うんだけれ……。 .鈴木 ヴェッダの欲求不満がたまった。(笑) 竹田 うん、それだけだったらヴェッダで曲をやるというのでもよかったんだけど、もう少し形にこだわりたかった。臼井くんと前々からグループをつくろうかという話をしていたこともあったし。<A-Musik>は、たとえば、ロックバンドとか現代音楽の演奏集団とか、世間ですぐ公認されるような普通の音楽活動の、できるだけそのままのかたちをとりながら、それとまったく逆のことがどれだけできるかな、と考えたのが、コンセプトの出発点だった。ヴェッダだったら即興演奏だから、そこで出てくることは、理想的には一回限りのものでしょう。それにワークショップだから主なメンバーはともかく、演奏する人も一回ごとに変わる。形の上ではそれと違って、リズム・セクションもあり、バンドとしての首尾一貫性もあって、レパートリーも持っている.<A-Musik>は、そういうところだけ着目すれば普通のバンドなんだけど、でも、どこか違うということやりたかったのね。曲については、曲がある・ないということで、あるのが普通で、ないのが普通でないのがいまのパターンだから、その普通の方をとって、曲をやる。といっても基本的にオリジナルはやらない。 佐藤 2年前にインタビューしたとき、オリジナルをやらず、カヴァー・ヴァージョンを演るといってたね。 竹田 オリジナルということを考えると、世間には“オリジナル”が充満しているでしょ。ひとつの一番極端なかたちは“ニューミュージック”。いつ頃からかな、シンガーソングライター・ブームっていうのがあって、それ以前はうたう人、曲をつくる人、詞を書く人が別々にいるのが普通で、それぞれがその技術を尽くして作品ができていたでしょ。シンガーソングライターというのが出てきた必然性っていうのはやはりあって、他人に託すことのできない、自分の私的は、個的なところで詞についてもうたうということについても表現することの必要性がでてきたのは、それなりに理由があると思う。ところが、非常に優秀な人はその三つのことを同時にやって、そのどの部分をとっても高度な、質的に高いものができる。そういう人たちがいたから一つのブームをつくる力になったと思うけれども。だけど、そういうスタイルが広まったというのは一方、曲、詞、歌、それぞれに高い質が要求されない、使い棄ての“オリジナル”が求められる時代になったからじゃないか、とも思う。しかも、そういうオリジナルのつくられ方っていうと、フォーマットは全て既にあるものを使って、極端なことをいえば、そのときのはやりのパターンを使って、そのうちの例えばコトバの組み合わせを入れ替えたり、同じコード進行に乗りながらその上にいくらでも入れ替え可能なメロディーをのっけて、それをオリジナル曲だと称する、そういうオリジナルが充満していると思うのね。本質的な差異をつくりだすんじゃなくて、マイナーな差異を付加するだけ。そういう中でオリジナルをやるんだということを誇ってみたってあまり面白くない。 小山 “コピー以上のコピー”を一生懸命つくってみても仕方がないというわけ。 竹田 そういう“オリジナル”を作る意味は何かっていうと、印税が入ってくることね。オリジナルじゃないと印税とられるんだ。 福子 印税払ったことないくせに。(笑) 竹田 だからさ、みんながなぜオリジナルを作りたがるかっていうのはね、表面でどんなにかっこいいこと言っても、自分のところにお金がたくさん入ってくることを望んでいるからなわけよね。 石渡 ぼくなんか一銭も入ってこない。(笑) 小山 いや、でもぼくはオリジナルを志向する直接的往理由はそうは思わないけど。もちろん、ある一定以上の商業音楽をやっている人たちなら、これをこれだけ、こういうふうにつくればいくらお金が入ってくる、っていう見積もりから曲をつくるんだろうけど、今アマチュア音楽家の、楽器を弾けるっていう人口が、たとえば何百万ある、と。その人たちの音楽をやる衝動というか、オリジナルをつくろうとか思ったときの動機は印税が入ってくるというところにはないんじゃない。 竹田 そういう場合でも、オリジナルを演るってことが、あるステイタスを保証するわけでしょ。そのステイタスがどうして生じるかというとやはり……。 小山 印税から来てると思います? 竹田 うん。経済的要因だけが意識を支えているというわけじゃないんだけど。たとえば、マックス・ヴェーバーが、社会的な人間行動を規定するのは、経済的<外的、階級的>要素と名誉的<内的、心理的、身分的>要素があって、通俗マルクス主義のように経済的要素を第一に考えることに異を唱えたわけね。そういう意味では、オリジナルをつくることで得られる心理的なステイタスについてはもっと考えていいと思う。とくに今は“目立つ”ということに高い価値があるように思われていて、音楽をやれば目立てると考える人たちも大勢いるんだから。それだけ“身分”が剥奪された時代なんだ。もうひとつ、音楽のオリジナル性というのは“作曲”の過程にだけあるわけじゃはい。<A-Musik>の場合、原則としてライヴ毎に異なるゲストを招いて演奏するわけでしょう。そうすると同じ曲をやっても同じ演奏にはならない。一回毎の演奏がそれぞれオリジナルなものになってくる。即興演奏とも一脈通じるのだけれども、作曲のオリジナリティー以上に演奏のオリジナリティーを大切に扱ってもいいんじゃないかと思うよ。 小山 <A-Musik>が普通のバンドの形式をとって、ノーマルな曲をやるといっても、そのレパートリーはずいぶんと特異性があるよね。 竹田 ぼくのいい方では、ポップスでも、アカデミックな音楽でもなく、ポピュラーな音楽。 佐藤 ポップスとポピュラー音楽はどう違う? はやり歌と永くうたわれるものということかな。
既成の曲をやるということは、もう一つ意味がある。革命歌にしろ流行歌にしろ、これまで多くの人にうたい継がれてきた曲には、一人一人の思いが込められてきたわけ。音楽っていうのはすごく抽象的なものだと、思われてるでしょ。音楽自体が、あるメロディーが、それだけで革命的であったり、反革命的であったりすることはないというようないい方もよく聞くでしょう。たとえば、アイスラーの「統一戦線の歌」。あれは、当時のドイツ・マーチの典型的なつくり方だから、歌詞を変えて、うたう主体が替われば、ナチスの歌になったっておかしくないって、よく言われる話だね。あるメロディーが悲しいメロディーだとしても、それが一体、葬式の悲しみなのか、失恋の悲しみなのかということは、音楽の音によっては区別できない。だけど、それは音楽が譜面に書かれていて、音に出して演奏したときに、それで音楽が完成すると考えているからなわけね。音楽というのは、音が出されて、それを聞く人がいて、そこで初めて成立するんでね。聞く人にとってはそれをどういう時に、どういう場で、どういう気持ちで聞いたかによって、その曲とすぐに結びつくイメージがあり、ものすごく特殊に個人的な思い入れもあるし、あるいは社会一般で、こういうメロディーが流れてくると悲しいというように、みんながいうからそうだ、という馴致された感性もある。いろんな人に聞かれたり、うたわれてきた(ポピュラーな)音楽というのは、そういう社会的なレヴェルや、個人個人のレヴェルでどう受け止められてきたかがフィードバックされて、それを抱え込んで伝わり残されてきたと思うわけですね。だから、直接的にはぼくが自分が聞いたり知っていた曲で個人的な思い入れがあったり、いいなあと思ったりして演っている曲も、それをぼくたちが演奏することで、ぼく個人の思いを超えて、その曲に込められてきた思いが伝わるのではないか、伝えたいと思っているわけ。 |
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小山 レパートリーということでは、水牛楽団と重複しているものがけっこうあるけれど、水牛楽団の対象をはっきりと絞り込んだ活動のしかたに比べて、<A-Musik>のレパートリーの多様性は焦点をぼけさせてしまうんじゃないかという批判もあるんじゃないかな。 竹田 <A-Musik>のレパートリーの多くは、とりあえずぼくの趣味で選んできたんだ。水牛楽団の場合、それが依拠するのは、人民の趣味かもしれないけれどね。でもその人民の趣味というのは、観念の上で導き出されたもののように思える。たとえばタイで、“腐った水の音楽”と“生きるための音楽”を求める層がどのように分かれていて、それぞれが日本のどんな層に対応するのかという論理は欠落していて、意外にセンチメンタルなところで対応させているだけじゃないかな。日本にいる一人一人の人間の現実の趣味性には依拠していないわけね。……水牛楽団の活動を見ていて、こういうことをやるのは正しいな、と思う人はきっといると思うのね。だけど水牛楽団の演奏を見て、聞いて、楽しいな、と思う人がいるかっていうのは疑問だな。そういう人を想定するのがぼくはすごく困難なわけ。<A-Musik>の場合、どれだけ聴衆に見えているかはわからないけれど、ぼくたちやる人間が楽しむというのが基本にあるわけね。そこのところからしか実際に日本で生活している人の趣味性や知性とは渡り合えないと思う。それとアジプロって、あるテーマについて聞く人を鼓舞するってことでしょ。そういう意味で学ぶべきものは戦時爵謡とか軍歌になると思うわけ。少なくともぼくは、ぼくたちが今生きているのは戦場だと思うし、ぼくたちの闘いを鼓舞していきたい。だからもちろん、具体的な個々の課題の勝利に貢献したいという気持ちはあるんだけど……。 小山 党派機関紙的な性格ではなくて……。 竹田 うん、それよりも、それを通じて個々の人間が自らの解放のしかたを発見する回路をつくりたい……というとカッコよすぎるか。 小山 そういう立場を取ると、いやな言葉だけど啓蒙的にならざるを得ないでしょう。 竹田 啓蒙という意識はほとんど……あ、あることはあるんだ。ただそれはぼくたちのやっているレパートリーを広めたいというところでね。文化的な情報資源をあまり浪費したくないんだ。3か月で使い棄てされる曲を次々とヒットさせなければ成り立たないレコード産業のように無駄な使い方はしたくない。<A-Musik>の演奏を聞いた人や、ゲストで一緒に演奏した人がその曲を覚えてその人なりのやり方でまたうたったり、演奏したりするようになれば、その曲がもっとふくらんでいくと、思うわけ。啓蒙ということでいえば、歌詞は日本語にするべきだという考え方もあると思う。でも<A-Musik>は、歌詞がいろいろでしょ。ドイツ語でうたったりスペイン語が出てきたり、言葉の上では、いくらヴォーカルのバランスがよくても意味がよく伝わらないじゃない。 たとえば水牛楽団は全て日本語でやってるよね。 メッセージが伝わらなきゃ意味がない、ということで。<A-Musik>のレパートリーは、はっきりしたメッセージをもった歌が多いじゃない。そういう言葉の上でのメッセージを伝えるためには、やっぱり日本語にした方がわかりやすい、というのはあるんだけれど、伝えたいものというのが、言葉によって聞いてわかることだったら、言葉で伝えられる範囲のことだったらね。でも、言葉では伝えられない、それ以上の音楽の力があると思うから、演奏をするわけでしょ。たとえば、ドイツ人のつくる曲はドイツ語のリズムとか抑揚とか、そういうものと密接に関係をもっていて、やっぱり原語でうたうのが、その曲、詞のもっている力を一番よく引き出すことができるんでね。その力を大事にするか、言葉によるメッセージをとるか、といったときに、絶対の規準じゃないけど、どちらかといえば、前者の力の方をとりたい。そういう意味では言葉が全部伝わらないとメッセージが伝わらない、というのは、必ずしもそうではないと思う。 佐藤 ライヴのときには日本語の曲もやってる? 竹田 いつもとは限らない。やるときもある。 佐藤 <A-Musik>の漠然としたイメージって、「反日ラップ」にすごく象徴されると思うのね。だから、他の曲でも全てラップのイメージが重なってしまう。何語でうたおうと、言葉の意味が聞きとれなくても。 「反日ラップ」を知らない人だったら「マーチ」聞いても軍歌と変わらないかもね。(笑) 竹田 それは、「反日ラップ」の詞があるから、歌詞のわからないものやインストゥルメンタルでもそれに近い意味を加えて聞くわけ? 佐藤 うん、そう。 竹田 まあ、音楽での意味の伝わり方というのは、そういうかたちなんだろうとぼくは思うね。たとえばレコードに入っている「There will never be another you」というジャズ・スタンダードがあるでしょ。ラヴソングだよね。だけど、それが<A-Musik>の他の選曲の中に収まると、「決して、あなた以外の人になれない。自分は自分を生きるしかない。」といったメッセージになるでしょ。そうするとぼくにとっては“反核”をいうよりも、政治的にラディカルなメッセージになることもあると思うのね。それは音楽の意味作用というのが、ひとつひとつの音楽だけで担えるものじゃなくて、その音楽がどういう場所、システム、配列の中で演奏されるのか、というコンテクストに依存しているからだと考えているんだ。革命歌が市街戦を鼓舞することができるのも、市街戦が、革命の“気分”が、現に存在しなくてはならない。 |